衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月26日    月曜日     第4開示 合計110開示

根塵識の三者和合触の秘密

識(しき)が触塵(しょくじん)に触れる時、根(こん)・塵(じん)・識(しき)の三つが和合(わごう)して触(しょく)するが、その結果は何か。六識(ろくしき)の作用(さよう)はそれぞれ何か。三つが和合して触するというこの事柄は非常に重要であり、その結果、識(しき)に受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)の作用(さよう)が生じ、それによって身口意(しんくい)が造作(ぞうさ)され、業種(ごうしゅ)が残される。もし識(しき)が塵(じん)に触れなければ、識(しき)には如何なる作用(さよう)も生じない。

それぞれの識(しき)はどのような塵(じん)に触れるのか。各識(かくしき)が触れることのできる範囲(はんい)を明らかにすれば、全ての法(ほう)を了解思惟(りょうかいしゆい)し尽くすことができる。その後、六識(ろくしき)が無くとも何が為せるかを思惟(しゆい)する。これらの作用(さよう)は全て六識(ろくしき)によって造作(ぞうさ)されたものであり、生滅(しょうめつ)し虚妄(こもう)なるものである。

無色界(むしきかい)の衆生(しゅじょう)には色身五根(しきしんごこん)が無いのに、何故なお意識(いしき)の存在(そんざい)があるのか。意識(いしき)は何に依(よ)って存在(そんざい)しているのか。意識(いしき)の了別(りょうべつ)機能(きのう)の強大(きょうだい)さはどのような条件(じょうけん)に依(よ)るのか。これらの問題(もんだい)を明らかにすれば、将来(しょうらい)大乗(だいじょう)・小乗(しょうじょう)の如何(いかん)を問わず、より深く透徹(とうてつ)した悟(さと)りを得(え)ることができる。現在(げんざい)の観行(かんぎょう)が全面的(ぜんめんてき)でなく深透(しんとう)していないため、解悟(げご)する者はますます増(ふ)えているが、内心(ないしん)には何ら功徳(くどく)の受用(じゅよう)がなく、煩悩(ぼんのう)は相変わらず非常に重(おも)い。ある人々(ひとびと)は他(た)の者が動作(どうさ)を交(まじ)えて説明(せつめい)するのを見(み)て、その中(なか)のある点(てん)の作用(さよう)を知(し)り、自(みずか)ら理解(りかい)したかの如(ごと)く感(かん)じ、悟(さと)ったかもしれないと思(おも)うが、しかし問題(もんだい)の根源(こんげん)や本質(ほんしつ)に達(たっ)してはおらず、これは証悟(しょうご)ではない。

根(こん)が塵(じん)に触(ふ)れて、識(しき)が生(しょう)ずる。根(こん)が塵(じん)に触(ふ)れなければ、識(しき)を生(しょう)ずることはできない。命終(みょうじゅう)の際(さい)、四大(しだい)が先(さき)に分解(ぶんかい)するが、この時(とき)もなお識(しき)の存在(そんざい)があり、了別(りょうべつ)と感受(かんじゅ)が可能(かのう)であるため、非常(ひじょう)に苦痛(くつう)を感(かん)じる。各人(かくじん)の色身(しきしん)は自(みずか)らの第八識(だいはちしき)によって執持(しゅうじ)されており、自(みずか)らの色身(しきしん)の変化(へんか)も自(みずか)らの幾(いく)つかの識(しき)の作用(さよう)の結果(けっか)である。では、如何(いか)にして一人(ひとり)が他(た)の人(ひと)を殺害(さつがい)し、それによって他(た)の人(ひと)の色身(しきしん)の状態(じょうたい)を変(か)えることができるのか。意識(いしき)が無ければ、五識(ごしき)は生起(しょうき)できない。六塵(ろくじん)を了別(りょうべつ)するのは意根(いこん)の決定(けってい)であり、意根(いこん)が主宰(しゅさい)する。意根(いこん)は必(かなら)ず法塵(ほうじん)に触(ふ)れる。ただし意根(いこん)が決定(けってい)せず、主宰(しゅさい)しなければ、第八識(だいはちしき)は五識(ごしき)を生(しょう)じない。そして意根(いこん)が主宰(しゅさい)すれば、即(すなわ)ち法塵(ほうじん)に触(ふ)れたことになり、必(かなら)ず意識(いしき)が生(しょう)じる。意識(いしき)もまた五識(ごしき)の俱有依(ぐうゆえ)である。

——生如法師の開示
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何故、衆生は神通自在できないのか

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理解と解悟は本質的に異なる

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