衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月26日    月曜日     第3開示 合計109開示

何故、衆生は神通自在できないのか

例えば天眼通は、天上地下、いかに遠い距離であろうと、いかに微細な物質色法であろうと、眼識意識の見るものを阻むことはできない。なぜそうなのか?一切の色法はすべて如来蔵の中の色法であり、如来蔵は形なく相なく、距離がなく、遠近や大小もない。意根は如来蔵に依存して、如来蔵の中の一切の色法を見ることができ、高低・遠近・大小・広細の区別はない。意根が動かずとも如来蔵の中の物質色法を見ることができ、時間や距離という概念はない。すると眼識意識は意根に依存して、即時に如来蔵の中の一切の色法を見ることができ、時間・距離・高低・上下・軟硬の区別はない。

例えば天耳通は、瞬時に遠近一切の音を聞くことができ、時間・遠近・距離という概念はなく、粗い音・細かい音の区別もなく、一切の音を即時に聞くことができる。なぜそうなのか?一切の音は如来蔵の中の音であり、如来蔵が幻化したものである。意根は如来蔵に依って一切の音を知ることができ、遠近・高低・過去・未来・現在を問わない。耳識意識は意根に依って、一切の音を了別することもできる。

例えば宿命通は、自己であれ他者であれ、過去・未来・現在に経験したこと・経験するであろう一切の人事物を、意識はすべて知ることができる。なぜそうなのか?これら一切の事は如来蔵の中の事であり、如来蔵が幻化したものであり、如来蔵の中の記録である。意根は如来蔵に依って一切の人事物の理を知ることができ、意識は意根に依ってこの一切の法を知ることができる。目の前にあるように、阻まれることはない。

例えば他心通は、すべての衆生の心念を、意識はすべて知ることができる。なぜそうなのか?衆生の心念はすべて如来蔵の中の法であり、すべて如来蔵が幻化したものである。意根は如来蔵に依存してこの一切の法を知ることができ、障害はない。意識は意根に依って、衆生の一切の心念を知ることができ、過去の久遠の時劫であれ、未来や現在の心念であれ、障害はない。

例えば神足通は、身識と意識が色身を遠くの他方世界に連れて行くことができ、極めて近い一衆生の色身の中に入ることができ、障害はない。なぜそうなのか?一切の処所はすべて如来蔵の中にあり、如来蔵は形なく相なく、遠近・広狭の区別はない。意根は如来蔵に依って即時に如来蔵の中のいかなる処所にも一時に至ることができる。身識意識は意根に依って、如来蔵の中のいかなる処所にも至ることができ、時間・距離・遠近・広狭という概念はなく、一時に即到する。

衆生は愚かにもこの理を知らず、如来蔵の広大さを知らず、自らにどれほどの能力があるかを知らず、ひたすら無益な世俗法を追い求めて貪瞋痴の業行を造り、自らの神通力を妨げている。まさに損得に合わない。仏法を追求すれば、欲しいものは何でもあり、如来蔵には何一つ欠けるものはない。福徳資糧を満たすだけで、成仏さえも小事の一つ、何が難しいだろうか?

しかしなぜ衆生はなお三大無量劫を修行しなければ成仏できないのか?ただ恨めしいのは、意根という老いぼれが貪瞋痴にあまりにも激しく、執着があまりにも深刻で、無益な世俗法で執着しないものは一つもなく、有益な仏法には執着しない。意根の執着を取り除くには二大無量劫を要し、さらに意根の微細な無明を取り除くにはもう一つの無量劫を要する。難しさはここにあるのだ!

如来蔵の万宝嚢の中で、愚かな衆生はただ自らを縛り自在を妨げる荷物のような無用のものだけを取り、自らを富ませ解脱を得させる宝物を取ることを知らない。軽いものと重いものがあるのに、どちらが軽くどちらが重いかわからない。これが無明である!考えてみよ、人が追い求めるもの、自らを生死に縛り自在を妨げる世俗法とはいったい何か?重いと感じるか?縄を解きたいか?自由を得たいか?大千世界を得て砂の泡を捨てたいか?

——生如法師の開示
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