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日常法話

2018年02月27日    火曜日     第1開示 合計112開示

六識の現量における了別(一)

通常、私たちが言う現量の境界とは、現在、ただ今、現に起こっている様々な境界を指します。現量による了別とは、六識が六塵に対して現前に観察し、了別し、ある法の実在性を証知することができ、比較や対照、想像、推理などの思惟活動を用いず、了別されたものはすべて事実の真実であることを意味します。前五識は完全に現量で五塵の境界を了別し、現在存在し、起こりつつあり、運行している五塵の境界を了別します。第六識には比量、非量、現量という三量の了別がありますが、第六識もまた現量で現在存在する境界を了別することができ、多くの場合、第六識の了別は比量と非量です。六識が現量で境界を了別するとは、即時に了別し、現前に存在する境界を了別することを意味し、対照や想像による参究を必要とせず、了別の結果が事実と完全に一致することを現量による了別と呼びます。

意識心が現前の境界を了別するとき、例えば目の前の山河大地を観察している場合、このとき眼識は現量で山河大地の顕色(けんじき)、例えば山水の色合い、大地の色を了別します。色を見るとき、まさに目に入った瞬間のこの光景です。意識は山河大地の形色(ぎょうしき)、表色(ひょうしき)、無表色(むひょうしき)を了別します。例えば山の大小、高低、形状など、川の長短、幅、深さなど、これらは形色です。山勢、水勢、水流の状態などは表色であり、山の聳え立つ様、険しさ、禿げた様、真っ直ぐさ、水の激しく渦巻く様、深さ、静けさなどは無表色です。これらの境界はすべて現前に存在し、意識によって現前に観察され識別されるものは現量の境界であり、比較も幻想も必要とせず、真実を了別します。したがって意識と眼識はともに現量による了別です。意識にも比量と非量の了別があり、ある境界は対照や想像による思惟を経て初めて明確に、明白に了別されます。これが意識の比量による了別です。もちろん、了別の誤り、判断の誤り、思惟の誤りが発生する場合もあり、そのような誤った了別は必ず非量による了別に属します。

思惟判断を誤り、さらに経験と智慧が不足しているため、比量から導き出された結論は往々にして誤った結論となり、結論が事実と一致しないことは、如実でない了別、すなわち非量による了別です。なぜなら、このような了別は実際の状況に合致しないからです。無明の衆生の中では非量による了別の確率が比較的高く、独頭意識(どくずいしき)においても非量による了別の確率が比較的高く、神経や精神が正常でない人々の中では非量による了別の確率がさらに高くなります。例えば、ある人がむさぼるようにある食物を食べ、とても美味しそうに食べている様子を見て、傍らにいる人はこう考えます。この人が食べているこの食物はきっととても美味しいに違いない、そうでなければあんなに美味しそうに食べられるはずがない、と。その人が長い間空腹だったため、何を食べてもとても美味しく感じていることには全く思い至りません。そこでこの人は一緒に食べ始め、一口目を噛んだとたん、すぐに吐き出してしまいます。彼は食物にカビ臭さを感じ、吐き気を催すのです。これは比量による誤った了別、判断の誤り、経験不足によるものであり、このような例は非常に多く、数えきれません。

——生如法師の開示
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六識の現量了別(二)

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