衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月03日    土曜日     第4 回の開示 合計136回の開示

瑜伽師地論選釈

いかにして攀縁せず住着しないか。いわゆる諸々の愛が永く尽きて欲を離れ、寂滅涅槃および滅尽定を証得することである。なぜならば、攀縁とは諸々の煩悩の纏縛を指し、住着とは煩悩随眠を指す。それらの処において二種共に存在しない故に、攀縁せず住着しないと説かれる。これを涅槃の無攀無住と謂う。また「想」を攀縁と名付け、「受」を住着と名付ける。もしその処において二種共に無ければ、即ちその処を無攀無住と説く。かくの如く滅受想定における無攀無住を顕示し、今この義において意は滅尽定を指す。

釈す:何を以て攀縁せず住着しないというか。即ち一切の貪愛が永く断じ尽くされ、三界世間へのあらゆる欲望を離れ、心寂滅して涅槃の境地に入る、あるいは滅尽定を証得することを指す。何故かと言えば、攀縁の意味は心が諸煩悩に纏縛されることを指し、煩悩に纏縛されない者は諸法に攀縁しない。住着の意味は心に煩悩随眠が存在する故に法に住着することを指す。もし煩悩と煩悩随眠を断じ尽くせば、即ち攀縁せず住着しないと説かれる。これが涅槃の無攀無住の意味である。かくの如く滅受想定における無攀無住の境界相を顕示することは、この者が滅尽定を証得したことを説明する。

意根が受と想の二つの心所を滅除することを滅尽定と謂う。受は法を受容する住着の義、想は了知執取する攀縁の義である。攀縁とは煩悩の纏縛を指し、意根が煩悩を断除すれば攀縁せず、諸愛永尽すなわち離欲を成就する。意根が欲を離れれば諸愛永尽し、再び攀縁せず、無余涅槃に入る。衆生が無余涅槃に住まざるは、意根に攀縁あり、愛欲住着あり、法を受想し、煩悩に纏縛され心寂静ならざるを示す。

ここに示される思惟の論理は厳密にして隙無し。弥勒菩薩は明確に表明す:衆生の意根に欲愛あれば即ち攀縁住着あり、滅尽定を証得せず涅槃に入ること能わず解脱を得ず。もし衆生の意根が欲愛を離れれば、即ち滅尽定を証得し涅槃を証得し解脱を得ると。離欲とは三界世間法への一切の貪愛を離れることを指し、三界を出離す。離瞋とは瞋恚の現行煩悩を断除することを指し、単に意識の瞋を断ずるのみならず、特に意根の瞋を断ずべし。

意根に瞋あるが故に、六識を指揮して悪業を造作す。例えば意識が縁由無く怒りを生ずるは、意根の瞋によって引き起こされる。意識が事に遇いて「怒るな」と自らに告げるも制御できず怒るは、意根が意識の指揮に従わず敢えて怒ることを示す。意根が瞋恚心所を断除すれば、再び六識を指揮して悪業を造作せず、衆生との怨憎相報を止め、根深き瞋結を断つ。

弥勒菩薩の説く貪瞋痴は衆生の堅固なる煩悩なり。堅固とは断除し難く煩悩甚深なるを指す。これは単に意識の貪瞋痴を指すにあらず、主に意根の貪瞋痴を指す。意識の貪瞋痴は降伏・断除容易く、意識は聡明にして仏法を学べば転ずるを得る。意根は聡明ならず、法を理解し難く思惟せざる故、転換困難にして貪瞋痴煩悩根深く堅固なり。

意根を降伏せず唯だ意識のみ降伏するならば、意根が意識を指揮し、意根の指す所に意識は従わざるを得ず、依然として意根の貪瞋痴無明に繋縛される。意識が瞋を断じ意根未だ断ぜざれば、意根の瞋が生起して殺人を命ずる時、意識は理不尽に従い戦戦兢兢として殺害を為す。心中「すべからざる行為なり」と知りつつ、奈何すべからんとするも術無し。

所謂衝動型犯罪は意根が完全に主導する所なり。意識は思惟する暇も無く意根に牽引され、事後に至りて初めて後悔して大禍を悔いる。意根は自らが某と過去世に因縁あるを知り彼を憎むも、意識は此の人物が己に益あるを知り意根に諫め「遇う時は必ず忍耐し誂え奉るべし」と告ぐ。然るに彼に遇えば、誂え奉りつつ心に厭悪を生じ、打ち殺さんと欲す。此は意根が辛うじて意識の諫言に従うも、意識が稍々警戒を緩めれば、意根は即ち発作し六識を指揮して瞋恚行を造作し、以て某に報復せんとす。

——生如法師の開示
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