五つの心所法が一連の運行過程において、触心所は必ず存在しなければならない。つまり根・塵・識は和合して一体となり、分離してはならない。もし識が塵境から離れれば触は消失し、存在し続け運行することもできなくなる。塵も根から離れることができない。そうでなければ識の出生がなくなる。さらに、六識が六塵に触れることによってのみ、境界を受け入れ弁別することができる。触が前提条件である。もし我々が再び弁別したくなく、感受したくなく、身口意行を持ちたくないならば、識が塵に触れ続けないようにし、六識の注意力を移し、もはや作意しなければ、後の心行は生じない。これが定を修め心を修める最善の方法であり、この修行によって塵境を忘却し、念想を起こさず、あるいは少なくすることができる。阿羅漢たちはまさにこのようである。故に彼らは一般的に情緒の波動がなく、感受も少なく、境に対し心を動かさない。
一般の衆生が境界に接触する時、貪愛と愚痴があるため、一旦境界に触れると離れようとせず、長時間にわたる弁別と感受、長い思慮により、内心は閑暇を得ず、思考は乱れる。慧力がなく、はっきりと了知せず、思考も明らかでないため、決定を下せず、従って絶え間なく境界に触れ、反復して思考を巡らせ、心穏やかでない者がいる。考えが明らかでなく、思量が明らかでないため、択択できず、絶えず反復して作意と触を続けるのである。
ある者は一つの境界に接触するのに長い時間を要し、一つの事柄を思考するにも長い時間を要する。一つは心に貪愛があるため、一つは事柄が複雑で弁別する慧が劣るため、一つはこの事柄が重要であるため、必ず弁別思考を明らかにしてから択択しなければならない。もし了知が明らかでなければ、感受も明らかでなく、思考思量もそれに従って明らかでなくなる。これにより絶えず作意し、触し、弁別し続けることになる。作意と触が運行を続ける中で、どちらが先に運行しどちらが後に運行するかは定かではない。受と想のどちらが先に運行するかも定かではなく、幾つかの心所の前後順序は全て不定なのである。
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