衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月06日    火曜日     第3開示 合計161開示

六識における五遍行心所の働き(三)

五つの心所法が一連の運行過程において、触心所は必ず存在しなければならない。すなわち根・塵・識は和合して一体となり、分離してはならない。さもなければ識が塵境から離れると、触は消失し、存在・運行を継続できなくなる。また塵が根から離れると、識の出生はない。さらに、六識が六塵に触れることで初めて境界を受容・了別できる。触は前提条件である。もし我々が了別を止め、感受を止め、身口意の行いを止めたいならば、識が塵に触れることを継続せず、六識の注意力を移し、もはや作意しなければ、後続の心行は生じない。これが定を修め心を修める最善の方法であり、この修行によって塵境を忘却し、念想を起こさず(あるいはほとんど起こさず)到達できる。阿羅漢たちはまさにこのようである。したがって彼らは一般的に情緒の波動がなく、感受も稀で、境に対し心がない。

一般的な衆生が境界に接触する際、貪愛と愚痴があるため、一旦境界に接触すると離れようとせず、長時間の了別と感受、長時間の思慮により、内心は閑暇を得ず、思考は錯綜する。ある者は慧力がなく、了知が不明瞭で思考も明らかでないため、決定を下せず、その結果絶え間なく境界に触れ、繰り返し思考を巡らせ、心緒が安らかでない。理解できず、思量が明らかでないため、決断できず、絶えず反復して作意と触を続けるのである。

ある者は一つの境界に接触するのに長時間を要し、一つの事柄を思考するにも長時間を要する。その理由としては、心に貪愛があること、事柄が複雑で慧が劣り了別しにくいこと、その事柄が重要であるため必ず了別・思考を明らかにしてから決断しなければならないこと、などが挙げられる。もし了知が不明瞭であれば、感受も不明瞭となり、思考・思量もそれに伴って不明瞭となる。このため絶えず作意し、絶えず触れ、絶えず了別することになる。このうち作意と触は運行が進むにつれ、どちらが先に運行するかは必ずしも定まらない。受と想についてもどちらが先に運行するかは必ずしも定まらず、いくつかの心所の前後順序はすべて不確定なのである。

——生如法師の開示
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六識における五遍行心所の仕組み(二)

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