衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月07日    水曜日     第1開示 合計163開示

意根定の表現

定とは、すなわち不動、あるいは少動、あるいは緩動、あるいは滅を指す。動とは、身・口・意の行の発生と運行である。不動とは身・口・意の行が運行しないこと、少動とは運行が少ないこと、緩動とは身・口・意の行の動きが遅く微弱であること、滅とは身・口・意の行の停止と消失である。

これらの動と不動・少動・緩動・および滅は、いずれが指揮し主宰するのか。意根をおいて他になく、意識にこの機能はなく、五識にはなおさらこの機能はない。第八識は意根の指示に従い、決して事なきに事を起こさず、問題のないところに問題を探すことはしない。

意識が意根を降伏させた後、意根は安定し、攀縁性が軽減され、攀縁する法が次第に減少する。ついには心の行においては「多事より少事に如かず」となり、造作が減り、一部の心行と造作が滅除される。指揮棒を握って第八識を指揮すると同時に前六識を指揮し、忙しくて何をしているかわからなくなる状態から脱する。

こうして身体上の行為造作が減少・減速・軽減され、目は見ず、耳は聴かず、鼻は嗅がず、舌は味わわず、身は触れず、四肢は動かず、頭は動かず、ついには外在的な身行は完全に停止し、五識は滅する。四禅に修到した時には、意根は色身を制御したくなくなり、身を執着しなくなるため、色身を再び動かしたくなくなる。そこで呼吸が停止し、心拍が停止し、脈拍が停止し、あたかも死人のようになる。しかし意根はまだ了知性を滅除したくなく、なおも知ろうとするため、意識は滅せず、了知性を保つ。ただ了知性は非常に微弱で、動きは極めて遅く緩やかになる。

口行においては、声が次第に軽く・遅く・低く・微弱になり、ついには消失して無音となる。さらに少しでも声を出そうとすれば、意根はそれを望まず、意識は非常に疲労を感じる。意根は発声を停止することを決定する。

意行においては、最初の妄念紛飛から次第に念頭が減少・専一となり、ついには減弱・消失し、ただ一つの覚知だけが残る。反観力が消失し、さらに最後には覚知性と反観力も消失して無想定に入る。無想定の後、意根は境界を受領し覚知することも望まなくなり、二つの心所を滅して滅尽定に入る。したがって、定とは主として意根を減らすことであることがわかる。六識だけを定めても意味がなく、意根が六識にどうすることを望めば、六識はその通りにせざるを得ない。六識に何を了別させるかを望めば、六識はそれを了別せざるを得ず、六識にどれだけ了別させるかを望めば、六識はその分だけ了別せざるを得ず、六識にどの程度まで了別させるかを望めば、六識はその程度まで了別せざるを得ない。六識に自主権などあろうか。六識が定めようとしても、意根がそれを望まなければ、六識は造作せざるを得ない。意根が睡眠を望まなければ、六識は働かざるを得ず、意根の指揮棒から絶対に逃れられない。意根を降伏させなければ、どうして定められようか、いかにして定められようか。定を修するにはこの一つの道のみであり、他に途はない。定とは、すなわち意根の定である!

——生如法師の開示
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