意識が移ろわず、心が何ものにも住しない時、これは意識に定力が生じ、法に住しない状態である。意識は定境の法塵を了別でき、自らが境界に流されないことを知り、自らが色声香味触法を意に介さないことを知る。この「知っている」という知は、すなわち意識の知であり、これは意識の反観性、意識の証自証分の現起である。自らがすでに心を住するところなき状態にあることを知るこの知は、必ずや意識心であり、心の住するところなきは法塵の境界である。この境界は意根と意識と相応し、意識が了別する内容であり、第八識には相応しないが、また第八識を離れて存在するものでもない。
真実の心の住するところなき、六塵の境界に住しない心こそが第八識である。なぜなら第八識は六塵と相対せず、六塵にも住せず、六塵を了別もしないからである。七つの識は存在する限り、必ず六塵と相応し、必ず六塵を了別し、確かに六塵の中に住している。たとえ意識心が極めて微弱であっても、定境の法塵を知ることができる。ゆえに知がある限り、そこには意識心が存在する。一般の人は意識とのみ相応でき、第八識に相応することはできない。福徳、禅定、般若智慧などの種々の菩薩の条件を具えていないが故に、第八識を見出すこともできず、第八識の住するところなき運行状態を観察することもできないのである。
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