衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月11日    日曜日     第1開示 合計185開示

六七識同時証法による薫習成就

真に一切の法を証得するのは、すべて第六識と第七識が同時に証得し、同時に認めることである。もし意識心だけがどうこうと思っても、意根が認めず、六識が認める道理を知らず理解しないならば、意根は熏習を受けることに成功しておらず、彼は仏法を証得しておらず、身心世界は転変を起こすことができない。なぜなら、意識は表面を漂っているだけで、思惟も比較的浅く、意識自身も自主的ではなく、深層の意根の主導に完全に依存しているからである。意根が熏染に成功していなければ、彼は依然として元来の認知で意識の一切の行為造作を主導し、意識自身の単独の見解は相応の作用を果たせない。

意根は作主識であり、つまり我々が通常言う内心深層の潜在意識である。もし意根の内心深くが認める事と理であれば、身口意の行いを認めた理に従って行動させることを促すことができる。意根が我執を断つ前は依然として執着と煩悩があり、証得した理に完全に従って選択をすることはできないが、何と言っても意根は観念上すでに一定の転変を遂げている。意根が煩悩と我執を断つ時、内心に再び我がなくなり、熏習は非常に成功したと言える。

意識が思惟する過程は、意根が理を明らかにする過程であり、これは必ず経なければならない過程である。意識は必ず思惟し、しかも深く思惟しなければならない。もし思惟しなければ、意根は理を明らかにすることができない。意識心が理解した道理を、意根がまだ理解していなければ、身口意の行いは変化を起こすことができない。意根は意識の思惟内容の具体的な情報に依存しなければ、意識が明らかにしたこれらの道理を知ることができない。もし意識心が思惟を加えなければ、意根に伝える情報がなく、意根はこれらの道理を了別できず、彼は理を明らかにできず、その観念に変化を促すことができず、身口意の行いも変えることができない。したがって我々が仏法を修学するには、よく思惟し、意識心をよく利用し、理にかなった法に則って思惟観行しなければならない。仏法を修行するのに、意識を常に無念無想の状態に置いたり、意識を暇で無用にしたりしてはならない。そうすれば我々は深く道理を明らかにできず、智慧も増長されない。

——生如法師の開示
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