衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年03月11日    日曜日     第3 回の開示 合計187回の開示

意根が五蘊と六識を我として執る現れ (いこんがごうんとろくしきをがとしてとるあらわれ)

意根も意識を自我として執着している。もし意根が五蘊や六識を自我として執着しなければ、どうして我々に我見や我見を断つ必要が生じようか。それなら我見を断つ必要もなく、我執を断つ必要もなく、煩悩を断つ必要もない。そうなれば小乗の修行者たちは修行する必要がなく、なんと楽で愉快なことか。しかし現実はどうか。

仏法を学び修行する際、文字に囚われてはならず、ひたすら名言を暗誦するだけではいけない。深い理解と観行、如理に思惟することが最も重要である。もしそれができないなら、ある面で欠陥があるので、どこに不足があるかを見つけ出し、補って円満にすべきだ。自身の菩提心を点検し、菩薩の願力と心行があるか、福德が足りているかを確かめよ。

もし意根が六識を自我として執着しなければ、昏迷状態において意根が常に目覚めようとするのはなぜか。縛られた時、意根が常に束縛から逃れようとするのはなぜか。目を覆われた時、意根が常に眼帯を除こうとするのはなぜか。グループで発言禁止にされ、話せないことに不愉快を覚えるのはなぜか。意根に自我があれば不愉快だが、自我がなければ誰が不愉快となるのか。

言語は意識の機能作用である。意根がこの作用を自我の機能作用と見做すため、発言を禁じられると自由を失ったと感じる。意根が五蘊の意識を自我と見做すため、発言禁止になると面目を失うと感じる。意根が眼識意識の能見性を自我と見做すため、目を覆われて色を見られない時は不自由を感じ、必ず色を見て色に執着する。

意根が五蘊六識の機能作用を自我と見做し、六識の行蘊を自我と見做すため、縛られて活動できない時は不自由を感じ、行蘊がなければならないと考える。意根が色身を自我と見做すため、身体が傷つけられると不愉快に思い、必ず自分を打った者に報復しようとする。

意根が受蘊を自我と見做すため、享受を貪り、享受を許されないと不愉快になる。意根が六識の了知性を自我と見做すため、六識に見聞覚知を許さず六塵を了知できないと不愉快になる。

長患いの病人が長期にわたり床に臥せり動けず、我々が考えるに、意根はどんな滋味を感じるか。植物状態の人間は意識が微弱で、苦痛をほとんど感じない。苦痛を感じるのは必ず意根であり、常に起き上がろうと試み、常に境界を了知しようとするが、常に無力さを感じる。これらの事を意識は知らない。なぜか。愚痴と無明の故である。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

意根知即真知

次の記事 次の記事

独頭意識の種類と形態

ページのトップへ戻る