衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月12日    月曜日     第7開示 合計195開示

意識を我とする我見の断除(七)

また、身識と共にある意識心についてですが、この意識心が現起する条件としては、身根が完全であること、つまり身根が損なわれていないこと、すなわち私たちが麻痺状態にないことが必要です。意識が現起する縁としては、身根が存在すること、身識が存在すること、意根が存在すること、第八識が存在すること、意識自身の種子が存在すること、そして触塵が存在することが必要です。触塵には外触塵と内触塵があります。外触塵は外部の物体が発するもので、私たちの身体と接触し、その後第八識によって内相分の触塵に変現されます。内触塵は私たちの色身内部で生じる触塵であり、例えば、飢えや渇き、満腹感や空腹感、疲労、快適さなどがこれに当たります。これらの条件が整って初めて、私たちの意識心は第八識によって変現され、それによって身体内の触塵を了別することが可能になります。つまり、今自分が空腹であるかどうか、喉が渇いているかどうか、疲れているかどうか、今どこが痛いのか、どこが快適なのか、どこが気持ち良いのかを分別するのです。これらは意識が身体上の触塵を分別している働きです。

意識は身体の外の触塵も分別できます。例えば、日光が体に当たってどれほど暖かいか、どれほど温和か、風が体に当たってどれほど穏やかか、あるいは風が私の体に当たってどれほど激しいか、物が体に当たってどれほど痛いかなど、様々な触塵の感覚を分別して感じるのは、全て意識心の作用です。もちろん身識もその中で共同して作用しています。意識はどのような触塵であるか、良いものか悪いものか、それが生み出す影響や結果は何かを分別します。そして、それによって様々な思想活動が生じます。これらは全て意識心の思想活動です。これらの思想活動は一定の条件に制約されており、もしこれらの条件が失われれば、思想活動は現起できません。したがって、意識とは生滅するものであり、因縁によって生じたものであるがゆえに、自在ではなく、自主的でもありません。それゆえ、この身識と共にある意識心は私ではなく、私たちはそれを再び自分自身であると見なすことはできないのです。

——生如法師の開示
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