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日常法話

2018年03月12日    月曜日     第1開示 合計189開示

観行による意識の我見の断除(一)

意識の生起の原因は、意根が法塵に触れることにより、第八識が根と塵が接触する場所で意識を生じさせ、根・塵・識の三者が和合して触れることで、意識は法塵を了別し始め、それによって分別心が現起し、分別作用がこのように生じる。六識の中で、意識の活動範囲は非常に広範であり、私たちが気絶していない覚醒状態、真に眠りに落ちていない覚醒状態には、常に意識心が存在し、活動し、運作している。したがって意識の活動範囲は確かに非常に広く、私たちの現在の身口意行が現起する一瞬一瞬に、意識の現行がある。意識の体性とはすなわち:私が思惟し、私が了別し、私が観照し、私が反省するというものであり、私たち(意根を指す)は往々にして意識を私と見做し、この「私」という表現が最も顕著で、最も強烈である。

誰が意識を私と見做すのか?一つは意識自身であり、最も主要なのは意根である。彼(意根)は深刻に意識を執着して私とし、意識の全ての機能作用を私と見做す。意根は遍計所執性であり、普遍的に一切の法を計度して執取し、私とし、私の所有とする。彼は第八識を執取して私とするだけでなく、六識をも執取して私とし、一切の法が全て私であり、私に帰属するとする。その貪執性は特に大きい。私たちの身口意行の各活動の中、一つ一つの思考作用、一つ一つの心理作用は、全て意識の機能作用である。分別作用、思考作用、判別作用、反省作用、観照作用などが含まれる。思惟の作用は、世俗法を思惟するにせよ、仏法を思惟するにせよ、公案を参究するにせよ、全て意識心が起用しているのであり、意識の用途が相当に広範であることが分かる。

我見を断つには、思惟観行によって意識の生滅性、虚妄性を観じ、意識が生起するために必要な様々な縁を思惟し、縁によって現起する法が必定に空幻で生滅するものであることを了知しなければならない。意識心が現起する一瞬一瞬には、常に様々な縁が必要であり、様々な助縁があって初めて意識は生起し、活動できる。もし助縁がなくなれば、意識心は現前できず、断滅の状態に陥る。もう一つの方法は、意識心全体の生滅現象から意識の虚妄を思惟することである。意識が形成された後、表面上は連続不断のように見え、意識心の分別作用も常に存在しているように見える。実際にはこれらの作用は全て虚妄であり、生滅し、また断続的である。以下の五つの状況下では、意識は必定に断滅する。例えば:真に死亡する時、昏倒する時、夢のない眠りに落ちる時、無想定に入る時、滅尽定に入る時である。

思惟によって導き出される結論は次の通りであるべきだ:凡て因縁によって生じた法は、全て虚妄であり、生滅し、空であり、私ではない。この観念の形成もまた容易ではなく、無始劫以前の誤った思想観念を覆さなければ、現在の理にかなった如実の思想観念を確立することはできない。これ以後は、縁によって生じた法を再び真実と誤認することはなく、これが我見を断つことである。

——生如法師の開示
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