衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年07月14日    水曜日     第1開示 合計3481開示

純粋なる禅定は智慧を生じない

問:座禅の際に自己を空じ、「空」に一心に専念することは可能でしょうか?

答:空をどうやって保つことができるでしょうか?その「空」という概念自体が、すでに「有」に属しています。これは頭上に頭を据えるようなものです。空の境地に住すること、あるいは空の心で静座することは、いずれも純粋な禅定に過ぎず、智慧を生み出すことはできません。六祖大師は『六祖壇経』においてすでに明確に批判されており、読経時には理解できたように感じても、実践段階になると混乱してしまうものです。禅定の中に観照法義がなく、観行がなく、疑情がなければ、智慧は生まれません。例えば念仏三昧の場合、いかに深く安定していても、その中に疑情がなく、観行がなく、参究がなければ、どうして智慧が生じて我見を断ち、あるいは明心することができるでしょうか?

観行とは何でしょうか?世俗的な例えで言えば、様々な人や出来事を経験するうちに、次第に見抜けるようになり、やがて執着しなくなるようなものです。観行も同様に、繰り返し観察するうちに見透かせるようになります。「見透かす」とはどういうことか?人と長く接していると、その人柄が理解できるようになり、取捨選択が生まれ、さらには付き合いを続けるかどうかを決めるようになります。自己を観察する場合も同じです。五蘊の身心を絶えず観行していれば、時が経つにつれて五蘊を見透かせるようになります。道理は全く同じです。智慧が優れた者は早く見透かせるかもしれませんが、智慧が非常に乏しい者は来世までかかることもあります。しかし、その基礎は必ず築かれねばならず、修行の功夫は必ず積まねばなりません。

——生如法師の開示
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なぜ足を締めて組むほど禅定の効果が高まるのか

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