衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月14日    水曜日     第4開示 合計202開示

いかにして魔を懺悔し罪障を除去するか

多くの人が仏法を学び始めた後、世俗的な利益の追求から、仏法修学上の利益の追求へと転じます。しかし内なる自我は絶えず、我執は続き、我見と我執を増長させます。もっと多くの弟子が欲しい、もっと大きな権力が欲しい、もっと高い名声が欲しい、もっと多くの衆生の恭敬が欲しい――その全ての目的は、心理的な快適さを感じるためです。しかし、この心の快適さという覚受に実質的な意味はあるでしょうか? 大衆に追いかけられれば、私は快適に感じる。この快適さの覚受は意識心の感覚であり、この意識心は生滅して幻の如く、元より虚妄であり、長く存在することはできません。生じては滅し、日夜断滅するものです。

真の修行者は、常に心を静め、絶えず自心を反観すべきです。私はいったい何を求めているのか? 私はお金を掴むが、その目的は何か? 今、私は享楽や覚受を貪っているが、その目的は何か? 何の意味があるのか? どんな過失があるのか? 私は様々な欲望を持っているが、これらの欲望の結末は何か? 自らの心を見つめ、勇気を持って自らの心と向き合い、仏法を学ぶ究極の目的が何であるかをはっきりさせ、如何に理に適い法に則って仏法を修学し、その目的を達成しつつ、最終的な目標に背くことがないようにすべきです。もし心に求めるものがなければ、速やかに目的を達成できるのに、私はまだ何を求めているのか? 常に自らに問うべきです。何を求めているのか? 争い奪い合って何を図っているのか? 解脱を得られるのか? 実質的な意味はあるのか? 求める全ては如来蔵が幻化した影像なのではないか? 求めては失い、あるいはより多くを失うのではないか? このように理に適わない作意と追求は、束縛の枷をより多くするのか、それとも解脱の功徳と受用をより多くするのか?

人は多くを得ようとすればするほど、往々にして多くを失います。私たちが仏を学ぶのは、心の負担を軽減するためであり、世間の虚妄の相に目を惑わされてはなりません。他人を見るにははっきりと見なければならず、自分自身を見るにはさらに明瞭に見なければなりません。常にこのように自らを反観すべきです。もし仏を学びながら、全て相に貪り、心に努力せず、相への貪着によって、世間で互いに争い奪い合い、自らの魂を売り、本心に背くことを行えば、ただ自らの煩悩と心の負い目を増すだけです。仏法を世間の利益を争う道具、個人の貪欲の道具、他人を圧倒する道具として用いるのは、実に罪深く、禍いは計り知れません。修行者がもし自らと衆生の心の煩悩を軽減する方法を考えず、かえって煩悩の上にさらに幾重もの枷を増やし、様々な不善業を造作すれば、こうして仏教と衆生に災いをもたらし、生を求めながらかえって堕ち、得るものより失うものの方が多く、全く無智の行いであり、速やかに悔い改め、罪の業を除くべきです。

——生如法師の開示
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