衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年07月08日    木曜日     第1開示 合計3475開示

観行はなぜ我見を断できるのか

観行 (vipaśyanā-caryā) という問題を例にとって挙げてみましょう。たとえば、子供はみなおもちゃが好きですが、ある子供はおもちゃを一つ手に入れると手放せなくなり、何年も飽きずに好きでい続けます。その知能は心配なところです。一方、ある子供はおもちゃを一つ手に入れると好奇心を持ち、分解しては組み立て、組み立てては分解し、最後にはおもちゃなどたいしたことないと見抜いて、もはや興味を失い、別のおもちゃに替えます。他のすべてのおもちゃに対してもこの態度で、分解と組み立てを繰り返し、内から外までしっかりと見抜き、見抜けばもう興味を失い、年齢と見識の増加に伴って、どんなおもちゃにも二度と興味を抱かなくなります。これはこの子供の心智が成熟していることを示しています。 

衆生はこの子供のように、五蘊というおもちゃも好きで、多生多劫にわたって手放せず、五蘊にがんじがらめに縛られ、苦痛を味わい尽くしてきました。どのようにして束縛から解脱するのでしょうか。心智の成熟した子供のように、五蘊の世界を分解し解き明かし、五蘊の実質を見透かし、五蘊は苦であり空であると知るのです。それ以外には何もありません。もし衆生が大乗の心智を持っていれば、五蘊の実質を見透かして、それは空である如来蔵 (tathāgatagarbha) であり、そもそも五蘊は存在しないと知ることになります。これが最も成熟した心智です。

大多数の衆生は五蘊に執迷し、五蘊の中に沈み込んで抜け出せず、おもちゃに執迷する子供のように心智が未熟で、五蘊をどのように分解すればよいのかを知りません。そこで仏は一つの方便の方法を設け、長期にわたって細やかに如理に観察することを教え、四念処の呼吸から観じ始めるのです。その目的は、まず呼吸から手がけて五蘊を分解することであり、これが最も簡単で効果的な方法です。ある人は呼吸を観じて、観じ続けるうちに、五蘊が少し破れ、この一点から色蘊を見抜き、もともと色蘊は苦であり空であり、それ以外には何もないと見抜いて、そこで身見を断じました。ある人は身見を断じると同時に、一息力を入れて、他の四蘊も一緒に分解し、五蘊の全体が苦・空・無我であることを見透かして、そこで我見 (ātma-dṛṣṭi) を断じました。さらに心智の優れた人は、五蘊を内から外までくまなく明らかに見抜き、直接に四果阿羅漢を証しました。 

だからこの観行 (vipaśyanā-caryā) は、五蘊を分解して解脱を得る非常に良い方法であり、衆生という子供たちの心智をいち早く成熟させ、五蘊を厭離し、生死の苦から解脱させるのです。鍵となるのは観じ方を会得すること、観じることが如理であることであり、これはまた衆生の心智と定力 (samādhi) にもよります。衆生の定慧には差異がありますが、これは当然のことであり、急ぐ必要はありません。日々観行 (vipaśyanā-caryā) を行い、長く観行 (vipaśyanā-caryā) を続ければ、遅かれ早かれ必ず五蘊を見透かし、もはやそれに惑わされ縛られることはなく、解脱は時間の問題なのです。

——生如法師の開示
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