例えば、観行という問題を挙げて説明すると、子供は皆おもちゃが好きで、ある子供はおもちゃを一つ手に入れると離さず、何年も飽きずに好きでいるが、その知能は憂慮すべき状態である。一方、ある子供はおもちゃを一つ手に入れると非常に好奇心を持ち、分解しては組み立て、組み立てては分解し、最終的におもちゃがその程度のものだと理解して興味を失い、別のおもちゃに替える。他のすべてのおもちゃに対してもこの態度で、分解したり組み立てたりしながら内側から外側までしっかりと見極め、理解すると興味を失う。年齢と見識が成長するにつれ、いかなるおもちゃにも二度と興味を持たなくなる。これはその子供の心の知能が成熟していることを示している。
衆生は子供と同じように、五蘊というおもちゃも好きで、幾生も幾劫も離さず愛玩し、五蘊にがんじがらめに縛られ、苦痛を味わい尽くしてきた。ではどのようにして束縛から解脱すればよいのか。心の知能が成熟した子供のように、五蘊の世間を分解し解きほぐし、五蘊の本質を見抜き、五蘊が苦空であることを知れば、他には何もないのである。もし衆生が大乗の心の知能を持ち、五蘊の本質が空なる如来蔵そのものであり、五蘊など全く存在しないと見抜くならば、この心の知能が最も成熟した状態である。
大多数の衆生は五蘊に執着し、五蘊の中に浸りきって自ら抜け出せない。まるでおもちゃに夢中な子供のように心の知能が未熟で、五蘊を分解する方法を知らない。そこで仏は方便の方法を設け、長期にわたり細やかに理にかなった観察を教え、四念処の呼吸から観を始めるように導かれた。目的はまず呼吸を手がかりとして五蘊を分解することであり、これが最も簡便で効果的な方法である。ある者は呼吸を観じ、観じ続けるうちに五蘊が少し破れ、その一点から色蘊をかいま見る。そして色蘊が苦空であり、それ以外には何もないことを理解し、そこで身見を断つ。ある者は身見を断つと同時に一気に力を入れ、他の四蘊もまとめて分解し、五蘊全体が苦空無我であることを見抜いて我見を断つ。さらに心の知能が優れている者は、五蘊を内側から外側まではっきりと徹見し、直接四果の阿羅漢を証する。
したがって、この観行は五蘊を分解して解脱を得る非常に優れた方法であり、衆生という子供たちの心の知能を早く成熟させ、五蘊に厭離し、生死の苦から解脱させるものである。鍵は観じ方を知り、観じ方が理にかなっていることであり、これもまた衆生の心の知能と定力による。衆生の定慧に差があるのは当然だが、焦る必要はない。毎日観行し、長く観行を続ければ、遅かれ早かれ五蘊を徹見し、もはやそれに惑わされ縛られることはなく、解脱は時間の問題である。
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