衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月17日    木曜日     第3 回の開示 合計1184回の開示

戒によって定が生じ、定によって慧が発します

楞厳経第六巻において、仏は説かれた:阿難よ、汝は常に我が毘奈耶の中で説く修行の三つの決定義を聞いている。すなわち心を摂することが戒となり、戒によって定が生じ、定によって智慧が発する。これを三つの漏れない学びと名付ける。

毘奈耶は経律論の三蔵の一つであり、仏の説かれた戒律である。また自らの心を調伏し、身口意を調えることを意味する。身口意の作業を調和させることである。調伏の結果、煩悩を降伏させ断除し、心に漏れなく、身口意がすべて漏れなく煩悩を離れ、煩悩の習気も無明もなく、ついに仏となるのである。

なぜ心を摂することが戒となるのか。どの心を摂すれば戒を成就できるのか。心を収めない時、身口意は妄動し乱れる。身体は、すべきでないことを行い、行くべきでない場所へ赴き、動くべきでない時に動く。重ければ殺生・盗み・淫行の業を造り、禅定は成就できない。たとえ軽微な身体の乱れでも禅定はあり得ない。身体が定まらなければ禅定は不可能だからである。

心を収めない時、口は妄語を吐き、言うべきでないことを言い、語るべきでないことを語る。重ければ虚言・綺語・両舌を犯し、五戒十善に背き、心が清浄でなくなるため禅定は不可能である。たとえ五戒十善に背かなくとも、口が乱れれば心も乱れ、心行が多ければ心は寂止せず、禅定は得られない。

心を収めない時、意業は必ず清浄でなくなる。思うべきでないことを思い、慮るべきでないことを慮り、覚えるべきでないことを覚え、観るべきでないことを観る。こうして貪瞋痴の煩悩が現前し、心の水が濁れば、どうして定があろうか。

思うべきでない人を思い、慮るべきでない事を慮り、執着すべきでない情に執着すれば、心はどうして寂止できようか。仏菩薩の影像に心を置き換え、その加護を受ければ、心は清浄となり直ちに禅定を得る。

心を収めぬ者は、己に関わらぬ事柄に心を奪われ、六塵の縁影が重なり、心に空隙なく覆われていては禅定は生じない。禅定が修められぬと嘆く者は、自らを検べ、心を覆うものを除き、心を空しくすべきである。

禅定を妨げるのは貪瞋痴の煩悩であり、世俗法に執着する心である。これらを捨てずして如何にして定を得られようか。心を境界から離し、心は心、境は境とし、諸法は各々の位に住する時、覚照力は増大し、智慧は自然に現前する。

戒によって定が生じる理を説き終えた。心を収めることが戒であり、第七識である意根を制することは、身口意行の総开关を掌ることに等しい。意根が戒定慧を統べる時、究竟の仏果を得るのである。

仏の遺された宝は戒定慧の三学である。前二者を捨てては真の智慧は得られぬ。戒定慧は第六識の表面に留まらず、第七識意根に至って初めて真実となる。意根の戒定慧こそが一切の法を統べ、仏道を究竟するのである。

——生如法師の開示
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