瞑想修行において最も重要な禅定は、修める目的と一致していなければなりません。瞑想の目的とは何でしょうか。それは真理を明らかにし、智慧を開くことです。ですから心は明らかにすべき理法に定め、念々に法の中にあり、修める法に専一する必要があります。そうして初めて専心して思惟し、ついに思惟が明らかになり、法を証得して三昧の智慧を得るのです。従って最も重要で第一の禅定は、意根が法の中に定まり、法を証得しようとする意欲、理を明らかにしようとする意欲、観行しようとする意欲、参究しようとする意欲、解脱しようとする意欲を持つことです。そうして初めて一心不乱に観行と参究に専念できます。瞑想の方向性が明らかになれば、瞑想と修行の道筋は外道とは明らかに異なってきます。
もし意根にこれらの意欲がまだ備わっていなければ、修める法に定まることはできず、そうなると禅定を修めることは不可能です。なぜなら内的な原動力が不足しており、外的な定力は修められないからです。善根も福德も因縁も不足し、大菩提心を発していなければ、原動力は生まれず、置かれた環境の影響や制限を突破できません。まるで蚕が繭に縛られるかのようです。もし意根の原動力が不足し、法に定まることができなければ、禅定はうまく修められず、観行も効果を発揮しません。禅定がうまく修められない人は、自分が菩提心を発しているかどうか、発心が純粋かどうか、内心に原動力があるかどうかを点検すべきです。
意根の禅定はまず法に定まり、その後で意識が法に定まって散乱せず、専心して観行できるようになります。なぜなら意識は意根に従って動くからです。意根の指揮棒は刹那刹那に意識を指揮しており、もし意根が定まっていなければ、指揮棒をあちこちに振り回し、意識は全く定まることができません。ですから禅定で最も重要なのは、やはり意根を定着させることです。意根が定着すれば、常に法を念じ、精進して修行し、原動力が強くなり、禅定修行は急速に進みます。意根が小乗の四聖諦に定まれば、三十七道品に精進して学び、大乗の般若智慧に定まれば、菩薩の六度に精進して修行します。ただ意根が仏法に精進して修行してこそ、意識も精進できます。意根が懈怠すれば意識は精進できず、意根が三十七道品を具えれば、意識も必ず具えるのです。
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