生死は意根の遍計所執性 (parikalpita-svabhāva) によってあるのであり、そのうち意根の人我執は分段生死 (pariccheda-maraṇa) を引き生じさせ、一期の生命が一期の生命へと絶えず輪転することとなり、粗重ならびに細微な生死の苦悩に伴われる。意根の法我執は変易生死 (parināma-maraṇa) を引き生じさせ、細微で長久な生死の現象が永遠に尽きることなく、なお微細な無明惑業苦に伴われる。それならば、意根が人我執を断除すれば分段生死を了却し断除することができ、これは四果阿羅漢が五陰十八界への執著を断除するのに相当する。意根が法我執を断除してはじめて変易生死を滅除し、究竟に成仏することができる。
なぜそう言えるのか。すべての法は意根によって執取され執著されるものであり、執著すれば縛があり、執取すれば纏縛され、それによって無明があれば生死があるからである。意根は五陰の功能作用を我と執取し、十八界を我と我所有と執取し、三界世间を執取して貪愛して捨てず、遂に五陰に縛られ、十八界に縛られ、三界世间に縛られて、三界の苦から出離することができない。意根に五陰十八界の我見 (ātma-dṛṣṭi) を断除させてはじめて、五陰十八界への執著を断除することができ、それによって三界世间への貪愛を断除し、縛著を解き、一時的に解脱を得ることができるのである。
意根の無明のゆえに、法界の実相を知らず、如来蔵 (tathāgatagarbha) を証せず、また如来蔵の種子の功能作用をも知らず、如来蔵が変現して現じた一切の法を貪執して我と我所有とし、執著して捨てないので、遂に法縛があり、変易生死が除かれず、大解脱を得ることができない。意根に次第に事実の真相を認識させ、一切の法はすべて如来蔵の功能作用であり、いずれも如来蔵の所有に属し、自己のものは毫もないと証させてはじめて、意根は死心し、法愛を断じ尽くし、無明を滅し尽くし、すべての粘縛を解き、究竟に解脱し、本来の面目を回復することができるのである。
それゆえに、学仏修行とは意根の無明を破り尽くし、一切の法に我なしと証得し、意根の貪執を解除し、意根の遍計所執性 (parikalpita-svabhāva) を改変し断じ尽くすことであり、そうしてはじめて生死の枷鎖をすべて卸し去り、生死に自在であり、法に自在となり、大法王となり、三界尊となることができるのである。
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