衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月27日    火曜日     第5開示 合計267開示

意根の倶生我執と貪瞋痴の煩悩

問:倶生我執(くしょうがしゅう)は無始以来(むしこのらい)、虚妄(けもう)の熏習(くんじゅう)によって種子(しゅじ)となり、意根(いこん)と持続的に相応(そうおう)しているものです。しかし、意識(いしき)は毎生(まいしょう)新しく生じるものであり、前世(ぜんせ)の記憶(きおく)とは相応できません。道理(どうり)から言えば、倶生我執があるはずがありません。しかし、意識の思惟(しい)は意根の習気(じっけ)によって引き起こされます。例えば、前世の仇(かたき)を見た時、意識の心(こころ)に瞋心(しんしん)が生じますが、その原因(げんいん)は分かりません。やはり意根が前世の業種(ごうしゅ)に縁(よ)って、意識を牽引(けんいん)して瞋心を起こさせるのです。

答:倶生(くしょう)とは生まれながらに備わっているという意味です。倶生我執や倶生煩悩(くしょうぼんのう)は、いずれも意根が生まれながらに持つ貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)などの煩悩、無始劫(むしごう)以来より帯びている我(が)に執着する習気を指します。したがって、意根は業種と相応し、無始劫以来に造(つく)り収(おさ)めてきた種子がどのようなものであるかによって、意根はそれ相応の心行(しんぎょう)を顕現(けんげん)し、かつ種子を現行(げんぎょう)に変えることを促(うなが)し、意識の心行を主導(しゅどう)して業種と相応させることができます。

そして、意根は生命の出生(しゅっしょう)に伴(ともな)って生じるものではなく、一期(いちご)の生命、一つの生命形式(けいしき)ごとに存在を伴うものであり、生命とともに生じるため、倶生と呼ばれます。また、意根は無始劫以来、無明(むみょう)の遮障(しゃしょう)によって、ずっと五陰身(ごおんじん)を我、我の所有物(しょゆうぶつ)と執着(しゅうちゃく)してきたため、倶生我執と呼ばれるのです。

意識には倶生性(くしょうせい)がありません。嬰児(えいじ)が生まれたばかりの時、母胎(ぼたい)内における意識でさえも、新しく生じた全く新しいものであり、過去世(かこぜ)や無始劫以来の煩悩や習気を帯びていません。この世の一切(いっさい)の法(ほう)については、全て再学習(さいがくしゅう)しなければ掌握(しょうあく)できず、ただ掌握の程度(ていど)や速さは累世(るいせい)の業種に関係し、意根と業種によって熏染(くんぜん)され、促されます。意識は一方で、この世の生存環境(せいぞんかんきょう)の熏染を受け、縁(えん)に随(したが)って善性(ぜんしょう)・悪性(あくしょう)・非善悪性(ひぜんあくしょう)の心所法(しんじょほう)を生じます。他方で、意根の熏染を受け、意根が善であれば意識も善となり、意根が悪であれば意識も悪となります。

したがって、意根が貪・瞋・痴の煩悩を生じた時、多くの場合、意識の分別(ふんべつ)や選択(せんたく)によらず、意根は意識を主導して理由もなく貪・瞋・痴の煩悩の心行を生じさせ、貪・瞋・痴の煩悩の業行(ごうぎょう)を造作(ぞうさ)します。意識の理性(りせい)が時として本来の役割(やくわり)を果たせないことがあります。業種が現行しようとする時、意根の情緒(じょうちょ)や習気が現行しようとする時、意識に理性があったとしても、対抗(たいこう)するのは困難(こんなん)であり、ましてや大多数(だいたすう)の人の意識には理性がありませんから、煩悩は氾濫(はんらん)してしまうことになります。

——生如法師の開示
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