禅定が不足していると、智慧も浅くなり、必然的に法に対して疑いが生じ、疑見が存在することになります。特に、深遠な法である唯識の種智については、各人に程度の差はあれ疑いが生じるものです。禅定と智慧が不足し、福徳も足りないため、実証することができず、現量で観察できないからこそ、疑いは一層深まります。そこで仏陀は『金剛経』において、衆生に疑いを断ち信心を生じさせるよう説かれたのです。
自ら実証できない状況では、疑いが生じるのはやむを得ませんが、決して結論を下してはいけません。結論を誤ると、それは誹謗となり、その報いは甚だ重いものとなります。智慧ある者は、自らが実証できない法義に対して、安易に肯定も否定もせず、自らに業障を増やすことを避けるのです。
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