衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年06月14日    月曜日     第2開示 合計3444開示

黙念における念ずる心と念じていることを知る心とは何でしょうか

呪文を唱える際、声に出して唱えようと黙念しようと、それは独頭意識が唱えているのであり、意根の念は言語や文字を伴いません。黙念を知るという「知」は意識の反照力であり、意識の反照力とは証自証分に他ならず、独頭意識が自らを認識し反照する作用です。もちろん、非常に熟練した場合には、意根による念と知も生じ得ます。意識が黙念する時、意根には知があり、意識が反照する時にも意根には知があります。この知は深く秘められており、認識も観察も困難です。意根は、独頭意識の反照作用も、呪文を黙念する機能も、全て自らの機能作用であると見做し、全てが自らが念じ知っているのだと認識します。 

もし禅定が比較的良好であれば、意根も呪文を唱えることに参与し、意識がそれを観察できますが、意識と意根の各々の機能境界を区別し難く、混同しやすいものです。禅定がある時には、第一に身心を分離させることが可能で、はっきりと明らかであり、繋がりはそれほど密接ではありません。第六識と第七識も各々分離可能で、互いに距離を置いて分かれることにより、初めて明瞭さが現れ、各々の法に対して虚妄の感覚を抱きます。もし禅定がなければ、諸々の法が絡み合って分離できず、はっきり見えないため、混ざり合った法が非常に真実で現実的であると感じられ、執取性が強くなり、煩悩が重くなります。禅定の利点は語り尽くせず、禅定がなければ、自分に修行があるなどと言ってはなりません。

——生如法師の開示
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四念処観行問答33

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