前七識は見分であり、六塵を見る識心であり、能見である。相分は六塵、すなわち色声香味触法であり、能見の相であり、所見でもある。第七識は意根であり、我執識である。それは五陰を我あるいは我の所有と執着し、十八界を我あるいは我の所有と執着し、前六識の見分を我あるいは我の所有と執着し、第八識の作用を我あるいは我の所有と執着する。それが見るものすべてを執着するため、普遍的計執の識と略称され、遍計所執識と呼ばれる。前六識は依他起性であり、六根が六塵に触れることによって生起し、如来蔵に依って生じる。生起した後は六塵を分別する。
意根は分別可能な六識心を我あるいは我の機能として執着し、六塵を我あるいは我の相として執着する。意根が執着せず注意を払わない時、六根と六塵が接触しても識心は生じず、識心による分別が発生しない。あるいは識心の分別が極めて微弱で、ただ知るだけで終わり、それ以上進行しない。これが無心の境地であり、見ても見えず、聞いても聞こえず、嗅いでも嗅ぎ当てず、六塵に対する感覚がほとんどない状態である。例えば味を感じずに食事する時、心は接触する事物に留まらない。
意根の六塵境界に対する具体的了別の智慧は比較的低劣で、分別性が弱く、主に前六識に分別を依存し、結果を再び報告される。意根は六識の分別結果に基づいて対策と行動を取る。意根が何かを成そうとする時、前六識に行わせる必要があり、自らは何も成せない。あたかも社長のように指揮し、命令を発し、前六識が実行せざるを得ない。
如来蔵は総裁の如く、前七識の一切の心行と活動を監視する。七識の種子はすべてそこから現れ、六塵の種子もすべてそこから現れ、一切の善悪業種もすべてそこから現れる。あたかも大倉庫の如く、衆生が用いるべき一切を貯蔵し、衆生が仏となる種子をも貯蔵するため、如来蔵と称される。これは総称名であり、凡夫から仏地まで適用可能である。また衆生の修行段階に応じて異なる名称を付すが、全て同一の心体である。
如来蔵の性質は円成実性である。それは一切の法を円満成就し、身口意行の一切を成就に依り、五陰の一切の活動を成就に依り、一切の因縁果報を成就に依り、世界の安立を成就に依る。所謂円満とは、因果に背かず、因果法則を忠実に履行し、一つの法も錯乱せず成就することである。
因果を実現する際、指揮や制限を受けず、自らも主張や意志を持たず、主宰せず、完全に縁に随う心である。衆生が仏に成らざる時の如来蔵には無明があり、染汚がある。この無明染汚は七識の業種であり、如来蔵自体に無明や染汚はない。七識の無明が滅尽し、全て智識に転じた後、如来蔵は無垢識・大円鏡智・真如・白浄識と称される。
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