相如の意は、この相は真如が現じたものであり、真如の一部分の属性と体性を備えているため、相から真如の存在を知るべきであり、相は真如が幻化したものであるから、相を見れば真如を見るべきであるというものである。例えば子供は母親から生まれたものであり、子供を見ればその母親を連想すべきで、子供と母親は一ならず異ならぬ関係にあるように、相と真如もまた一ならず異ならぬ関係にある。一でないとは、全ての法の相が完全に真如ではないことを指し、異ならないとは全ての法相が真如と繋がりを持ち、関連し、真如の一部分であることを指す。
もし一であるならば、法相が滅べば真如もまた滅び、真如が全ての法相を生じるならば、法相もまた真如に代わって全ての法を生じるはずであるが、現実はそうではない。もし法相と真如が異なるならば、法相は真如から来たものではなく、真如の執持がなければ法相は滅び、存在し得ない。真如は形も相もなく、全ての法は相を持つため、両者には異なる点が多く存在し、真如の体性は虚妄の法相で代替できない。全ての法相と真如は一ならず異ならぬ関係にあり、一と異の両面を備えているため、一つの側面を強調して他方を軽視・否定してはならない。全ての法相と真如には一の側面も異の側面もあり、即ち一でもあり異でもあるため、両者を合わせて説くことが正しいのである。
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