問:座禅中に気機が発動する現象はなぜ起こるのですか?
答:座禅中は縁となる法が少なく、心が空(くう)になりやすく、禅定が生じるのが速いです。一方、活動中は縁となる法が多く、禅定は生じにくく維持も難しく、気機も発動しにくいものです。座禅中に禅定が非常に固く確立し、気機の発動が持続して初めて、活動中には慣性の作用によって禅定が現れ、気機も現れる可能性があります。座禅中の禅定が固くなければ、活動中に禅定が現れることは稀であり、気機発動の現象はさらに起こりにくく、身体の気脈は非常に通りにくく、心も空になりにくいのです。
心が空であればあるほど身体への障害は少なくなり、気機は発動しやすく、しかも発動はより速く長く続き、入定は深まります。性の障り(しょうのさわり)がある人は気機を発動させにくく、発動してもすぐに消えてしまいます。将来、初禅定が生じる際にも同様の気機発動現象があります。心が空であればあるほど性の障りは軽くなり、気機はより速く深く発動し、全身に行き渡りやすく、持続時間も長くなり、禅定はより深く長続きします。いわゆる性の障りとは、心に貪・瞋・痴の煩悩や執念があり、身体や自我に執着し、心が念じる法が多く、攀縁(はんえん)が絶えず、世俗の法を全て実体あるものと執着して捨てようとしないことです。
問:呼吸の出入りに従い、意識を呼吸に置いていますが、どのように頭部を観行(かんぎょう)すればよいのでしょうか?
答:呼吸を観じる時、観ずる対象は常に呼吸であり、頭部を観る必要はありません。縁とする対象は専一で持続的であるべきであり、そうして初めて定慧(じょうえ)が共に生じます。そうでなければ散乱し、観慧(かんえ)は生じず、観じないのと変わりません。観行とは事実を観察することであり、あるものをあるがままに観察し、あるがままに知ることです。ないものを想像する必要はなく、事実を尊重すべきです。現量(げんりょう)の法の上にのみ現量の智慧が生じます。想像したものはそれではありません。観行はまず注意力を集中する訓練に過ぎず、難しいことではありません。
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