仏法の修行過程において、長期にわたる広範な観察を通じて、人・事・物に対する認識の智慧が向上すると、思想観念が変化します。観念が変われば態度が変わり、態度が変われば行為が変わり、行為が変われば業が変わり、業が変われば果報が変わり、果報が変われば智慧によって解脱がもたらされます。解脱とは諸法の空性と虚妄性を完全に認識し、もはや諸法に執着せず、世間が空寂となり、心が安らぐ状態です。空を認識するに至れば、世俗の一切はどうでもよいと感じ、世俗の法はその場しのぎとなり、世俗における利益の有無は重要ではなく、肝心なのは心が空となり、身口意が変化し、貪瞋痴の煩悩業を造らなくなり、果報が善となることです。もし空を認識できなければ、心に自我が存在し、自我があれば煩悩と煩悩業が生じます。
空の認識は三つの段階で次第に深まります。最も深いのは如来蔵の観点から認識するものですが、如来蔵を証得しなければ空を認識できません。やや深いのは四聖諦の観点から認識するもので、最も浅いのは世間法の観点から空を認識するものです。これは経験と聡明の智慧の積み重ねによる世間智者の智慧であり、もちろん究竟のものではありませんが、無智の者よりはましです。最も徹底した究竟の認識は、如来蔵における七大種子の機能作用の観点から一切の法を認識するもので、これによって空は絶対の境地に至り、空すらも空じ、空空もまた空じ、一切の心と境を絶ち、一切の法と境が余剰となります。この境地に至れば、もはや語るべきものは何もなく、言葉で表せるものは存在せず、意会もなくましてや言伝えもありません。
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