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日常法話

2018年04月05日    木曜日     第3開示 合計305開示

諸法無我(三)

第八識の無我性について、第一に、第八識にはなお生滅を繰り返す種子が含蔵されており、種子は変異して固定しないため、第八識は真実不変のものではなく、恒常的でもない。したがって、それは完全に真実の我(アートマン)ではない。生滅変異しないものこそが真実の我である。第二に、第八識は自らが真実の法であることを認識せず、主宰性も有していない。第七識は我ありとし、主宰を為すことができ、一切の法を我と見做す。第八識は第七識とは正反対である。第八識は真我であるが、この真我は無我性を有する。五蘊は仮我でありながら表面的には我性を有し、如来蔵は真我である。これは我々が与えた呼称であり、それ自体はそのように認識しておらず、この事実も理解していない。

五蘊十八界が輾転和合して生じる一切の法も、すべて第八識の執持作用によって顕現するものである。第八識がなければ、これら一切の法も存在しない。したがって一切の法は無我にして虚妄であり、五蘊自体に実質はない。このように法無我の一部を証得すれば、道種智が得られる。初地に入ってからは、百法の中に我のないことを証得し、鏡像観の成就を得る。二地に入ってからは、千法に我のないことを証得し、光影観の成就を得る。三地に入ってからは、万法・無量法の中にすべて我のないことを証得し、智慧は次第に深遠となる。諸法無我の内実は無量無辺に広大であり、ただ諸仏世尊のみが完全徹底的に証得し、究竟の円満なる無上の智者となるのである。

大般涅槃経において、仏は仏地の無垢識を常楽我浄と説かれる。常とは、すでに究竟し、もはや変異せず、含蔵する種子には生滅変異の現象が全く存在しなくなることを指す。我とは、無垢識が二十一の心所法を有し、真実の我、完全な我であり、我性を具足していることを意味する。諸仏が徹底的に無我であるとは、仏の七識心が究竟・完全徹底的な無我に達したことを指す。これ以前は、まだ究竟徹底的な無我ではなく、一部あるいは一小分の我が断尽されていないため、成仏できなかったのである。断尽すれば成仏できる。識心には証自証分があり、自らを反観する能力を有する。これが我性である。仏地の無垢識は自らの存在を証明でき、自らを反観できるため、我性を有するのである。

我が存在せず、一切の法の中に我がないとするのは、小乗が修する法である。外道の断滅空もまた、一切の法は空であり、真実なく我もなく、一切が終焉すると説く。彼らは真実不滅の第八識たる真我の存在を認めないため、外道と呼ばれる。小乗の声聞はすべて真我たる第八識の存在を認めるが、ただ証得できないだけである。外道はこれを一切認めないため、外道と呼ばれるのである。

——生如法師の開示
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