衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年06月09日    水曜日     第1 回の開示 合計3433回の開示

如来蔵法門を修学する意義とは何か

如来蔵の法門を修学する意義は何か。

すべての仏法の修学は、我空と法空を証得し、七識の我見・法見および我執・法執を滅除し、七識の無明煩悩惑を消除するためである。この目標を心に明確にしなければ、仏法や如来蔵を修学する意義は失われ、単なる学問となり、修行と学問が分断され、学問は学問、修行は修行で互いに関係のないものとなる。我々はこの点を明らかにすべきである。学問は無明煩悩を断じ得ず、かえって煩悩と繋縛を増やし、無明生死の惑業を増長させる。

学問と修行が分断される現象が生じるのはなぜか。根本的な問題は禅定と如実観行の不足、身心世界との照合と連携の欠如にあり、特に「菩薩は煩悩を断じない」という誤った見解が直接の根源である。修行の目的が不明確なため、学問が積み上がっても実義を伴わない。如来蔵の法を修学するのは煩悩を断ずるためであり、方向と方法が正しければ煩悩は徐々に消融し、断じようとしなくても知らぬ間に断たれる。方向と方法を誤れば、知識学問は増えても煩悩は減らず、むしろ学問の増長に伴い煩悩も増大する。これは法の学び方を誤り、本末転倒している。

衆生は歴劫にわたり無明煩悩の中にあるため、六道の生死輪廻と種々の苦難が絶えず続く。菩薩も衆生の一員であり、同様に無明煩悩によって生死輪廻し、修行によって無明煩悩を断じ、生死の結縛を離れて苦を捨て楽を得る必要がある。自ら無明煩悩を断じて初めて、菩薩として大衆を導き、同様に無明煩悩を断じさせ、苦を離れ解脱へ向かわせる資格が生じる。煩悩の深淵に沈む菩薩が、どうして他者を煩悩の淵から導く能力と資格を持ち得ようか。

「菩薩は煩悩を断じない」という見解は極めて有害である。煩悩を断じないなら、何のために仏法を学び修行するのか。衆生を度しながら煩悩を断じさせなければ、いかなる衆生を成就させるのか。衆生を学問知識の収集者や理論の専門家として終わらせることが究極の帰結なのか。知識理論は生死に抗えるか。福徳を飯として食べられるか。煩悩ある者は徳なく、福徳も功徳もない。福徳功徳なき衆生は生死の業障に縛られた凡夫であり、もはや修行や衆生救済を語る資格はない。

如来蔵の法を学ぶ者の中には、如来蔵を分析的に理解しながら自身は何ら利益を得ず、煩悩は依然として存在し、智慧は浅く、心は依然として結縛に縛られたままの者がいる。このような修学は最終的に徒労に終わる。如来蔵が如何に清浄で無我であり、一切の戒定慧を具足していても、五陰七識が清浄でなく無我でなく、戒定慧がなければ、福も慧もなく苦悩は尽きず、解脱の望みもない。如来蔵は依然として五陰七識を三悪道に生じさせ、六道の苦海で浮沈させる。

したがって修学は理・法・律に従い、正しい目標と航路から逸れてはならない。仏陀の戒律で自らを厳しく律し、戒定慧の三無漏学の基準に厳密に従って修学すべきである。目標は心に無漏を具えることであり、無漏とは無明と煩悩なき状態である。これが正しい修行の道である。「菩薩は煩悩を断じない」という邪見は、修行に逆行するものである。

——生如法師の開示
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