如来蔵の法門を修学する意義は何か。
一切の仏法の修学は、人空と法空を証得し、七識の我見・法見および我執・法執を滅除し、七識の無明煩悩惑を消除するためである。各人がこの目標を明確に心に刻む必要がある。そうして初めて、仏法を修学し如来蔵を修学する意義が生じる。さもなければ一つの学問となり、修行と学問が二つに分断され、学問は学問、修行は修行で、両者が無関係となってしまう。我々はこの点を明らかにすべきである。学問は無明煩悩を断除できず、かえって煩悩と係縛を増し、無明生死惑業を増長させることさえある。
なぜ学問と修行が分断される現象が生じるのか。根本的な問題は禅定と如実観行の欠如、身心世界との照合と連携の不足にある。その一つの誤った見解として「菩薩は煩悩を断たない」という点が直接の根源である。修行の目的が不明確なため、学問は積み上がっても実義を伴わない。如来蔵の法を修学するのは煩悩を断除するためであり、方向と方法が正しければ煩悩は徐々に消融し、断じようとしなくとも知らぬ間に断たれる。方向と方法を誤れば、知識学問は増えても煩悩は減らず、むしろ学問の増長に伴い煩悩も増大する。このような学法は完全な誤解であり、倒錯している。
衆生は歴劫にわたり無明煩悩の中にあるため、六道の生死輪廻という種々の苦難が絶えない。菩薩も衆生の一員であり、同様に無明煩悩によって生死輪廻し、同様に修行によって無明煩悩を断除し、生死の結縛を離れて苦を離れ楽を得る必要がある。自ら無明煩悩を断じて初めて、菩薩として大衆を導き同様に無明煩悩を断ち、苦を離れ楽を得て解脱へ向かう資格を持つ。もし菩薩が煩悩の深淵にいるなら、どうして他者を煩悩の深淵から導く能力と資格がありえようか。
したがって「菩薩は煩悩を断たないし断つべきでもない」という見解は極めて有害である。煩悩を断たないなら、何のために仏法を学び修行するのか。衆生を度しながら煩悩を断たせないなら、いったい衆生をどのような状態に導くというのか。果たして衆生が一人残らず学問知識の収集者となり、理論の専門家となることが最終的な帰結なのか。知識理論学問が生死に抗えるのか。福德として飯が食えるのか。煩悩ある者は徳なく、福德も功徳もない。福德功徳なき衆生は生死業障の凡夫にすぎず、それでどうして修行や衆生救済が語れようか。
如来蔵の法を学ぶ者の中には、如来蔵を分析し解釈して明瞭にしながら、自身は少しも利益を得ず、煩悩は相変わらず、智慧は浅く、結縛は依然として自心を縛っている者がいる。このような修学は結局すべて徒労に終わる。如来蔵が如何に清浄で無我であり、一切の戒定慧を具足していようとも、五蘊七識が清浄でなく無我でなく、戒定慧がなければ、依然として福も慧もなく、苦悩は際限なく、解脱の望みはない。如来蔵は依然として五蘊七識を三悪道に生じさせて苦しめ、六道の苦海で浮き沈みさせるのである。
したがって修学は必ず理にかない法に適い律儀に従い、正しい目標と航路から外れてはならない。仏陀の戒律で自らを厳しく律し、仏の説かれた戒定慧という三無漏学の準則に厳密に従って修学すべきである。目標は心の無漏である。無漏とは無明なく煩悩なき状態を指す。これこそが正しい修行の道である。「菩薩は煩悩を断たない」などと再び口にしてはならない。これは邪見であり、修行に逆行するものである。
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