衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年04月07日    土曜日     第4開示 合計316開示

修定の原理と目標

一般人の意識は、眠りに落ちた後に断滅して間断が生じ、意識の種子が生じない時を除き、それ以外の時には常に意識が存在しており、識の種子は絶えたことがありません。ただ、識の種子が様々な法に分散しているだけで、集中していないため、了別する智慧の力が弱く、智慧が劣り、思惟が緻密でないのです。修定とは、意識の種子の流注を少数、あるいは一つの法に集中させ、了別する勢力を大きくし、智慧を強めることです。これは一つの面です。もう一つの面は、意根が他の法塵に注意を向けて攀縁することを少なくさせ、少数の法塵に定着させ、作意を集中させ、心を緻密にし、思量を明晰にさせ、智慧を生じさせ、それによって法を証得させることです。

例えば、身体の根(身根)がゆっくりと動き、意識が身根の活動に定まり、意根もまた身根の活動に作意を向けると、意根は縛られます。このように意根が身根の活動に専念し、攀縁が少なくなると、如来蔵は他の法塵を現じにくくなり、意根が注意を散漫にすることを許しません。この時、意根と意識は気づくでしょう。身根の活動は、まるで機械仕掛けのように、操り人形のようで、これはまさに私ではない、と。このように自らの意思によらないことは、決して私ではない、そうして身見を断つのです。実際、意識はとっくに身体が私ではないと知っていました。修定をしなくてもわかっていたのです。ただ、意根が心の中で確信を持てなかっただけです。修定は、意根を定着させ、意識が導き出した結論が結局どうなのかを専心して思量させるためです。意根が現量で観察し、意識の結論がどうであるかを証明させるのです。身根の活動が緩慢になる過程で、意根はついに、機械仕掛けの身根が私ではなく、私に属さないことを観察し、そうして小乗の頓悟が起こり、豁然として大悟するのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

修定の奥義

次へ 次へ

清浄業と染汚業の関係

ページトップへ戻る