阿羅漢には慧解脱と倶解脱の二種類がある。慧解脱の阿羅漢は禅定が初禅のみであり、解脱の智慧を主とする。倶解脱の阿羅漢は四禅八定を修めるか、あるいは滅尽定を加える必要がある。阿羅漢は一切の煩悩の現行を断じ尽くさねばならず、初禅以上の禅定がなければ、貪欲・瞋恚・我慢などの煩悩をことごとく断じ尽くすことは不可能である。その証拠は『瑜伽師地論』または『阿毘達磨倶舎論』に求められる。
いかなる煩悩であれ、最も粗浅な煩悩でさえ、禅定がなければ断除できず、禅定がなければいかなる煩悩も断除し伏せることはできない。欲界の最も粗重な五品の煩悩を断除して初めて初果向(預流向)となり、初果(預流果)に近づくのであるが、これらはいずれも禅定を必要とする。禅定が深ければ深いほど、断除できる煩悩も多くなる。色界の禅定がなければ、欲界の貪欲の煩悩を断じ尽くすことは不可能であり、瞋恚の煩悩も断じ尽くせない。そうなれば三果阿那含(不還果)や四果阿羅漢を証得することはできない。したがって、仏法の修証において禅定は非常に重要かつ不可欠であり、禅定がなければ実修はおろか、ましてや実証など論じられず、仏法を修学することは虚仮(こけ)同然である。ゆえに、禅定を修めずに証果を得られると主張する者、禅定がない者は、この人物が一切の煩悩を具足している証左であり、我見を断じて証果を得ることは不可能で、具縛(ぐばく)凡夫の一人に過ぎない。
煩悩を断除した程度によって、証得した果位を判断できる。証果は煩悩の断除と密接に関連し、禅定と密接に関連している。煩悩とは無明であり、無明を断除して初めて智慧を得、解脱を得るのである。煩悩があれば智慧はなく、禅定がなければ煩悩があり、智慧がない。仏法は一環が一環を支え融通無碍(ゆうずうむげ)に貫かれている。もし各々の環が断絶し繋がらなければ、この法はこの法、あの法はあの法となり、有機的に融合することができず、それは仏法が通じておらず、関門を越えていない証左であり、実証がないことを示している。
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