衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年06月07日    月曜日     第1 回の開示 合計3430回の開示

次第観行あってこそ実証可能

耀霊の観行日誌:昨日、六境の虚妄不実を観じ、心にそれらを実有と認めず、徐々に六境に執着しなくなった。「心を起こして六境に攀縁し分別する」という行為が無常であり、不自在であり、消耗であり、苦であると観じた。なぜ自ら六境に注意を払わねばならないのか。引き続き回光返照し、心を起こして塵境に攀縁分別せず、妄想思惟も起こさなかった。塵境はもとより虚であり、境は自ら名づけるものではない。

さらに諸法無我・万法唯識を観じると、ここは『金剛経』の「実に法無く、一切の法は皆是れ仏法なり」という句の境地だと感じた。あらゆる現象は自分の影のようなものだ。ではなぜ自分の影に注意を払う必要があるのか。こうして完全に心を起こして諸法を憶念せず、心は自在自明の状態に安住した。心に感が起きなければ、現象も応じない。

境界は明るく澄みわたり、しばらくすると自らが果てしなき虚空に入ったと感じた。身体の境界も空間感覚も見出せない。この時「諸法無我」の慧観を守り、境界に攀縁せず、心は恐怖を感じつつも堅持できた。このような境界は十数分で消えた。観行がこの段階に至るたびにこの境界が現れるが、時には状態が退転し、数ヶ月経ってようやくここまで観行できることもある。この時「言語道断・心行路絶」をわずかに体得し、呼吸も有るようで無いようになり、ただ丹田に微かな呼吸があるのみだった。身体の気脈も急速に変化し、精神は速やかに回復した。

評:この観行はかなり精進しているように見え、いくらかの禅定効果もあるようだ。しかし実際には無秩序で次第を欠いており、学んだ理論を全て取り出して観行したに過ぎない。観行と言いながら実際には熏習であり、全て意識の思惟分析に落ちている。導き出された結論は意識の結論であり、学んだ理論の再提示でしかない。中間の証明過程も実際の証拠もなく、単なる理論に過ぎない。このように観行する者は非常に多く、皆自らが証得し確認したと思い込んでいる。

実際ここで述べられた理論は、一つを観行成就し証得するだけでも無量劫の時間を要する。それは地上菩薩の唯識種智の領域に属するからだ。凡夫が観行成就して直接地上菩薩になれるだろうか。明らかに不可能である。例えば諸法無我を観じるのは地上菩薩の観行境界であり、万法唯識も唯識種智の領域、一切法皆是仏法も同様に唯識種智の領域である。「あらゆる現象は自分の影」というこの「自分」を仮に如来蔵とすれば、この境界を証得するのは初地満心位に相当する。また六境の虚妄を観行するにしても、境界が虚妄である証拠は何もなく、ただ意識に強引に境界の実在を認めさせないだけで、六境が実際に虚妄であることを代表しているわけではない。これは観行ではなく経典の復唱である。このようにしては意識すら六境の虚妄を証得・確認できず、ましてや意根の証得はさらに遠い。

多くの者は理論を学びすぎて何でも知っているが、何も消化吸収できず心中に詰まり、中途半端な状態にある。これらの理論に対応する智慧の段階を知らず、如何に段階を踏んで浅く深く実際に証得するか、修学と観行の次第を知らない。慢心がない者はまだ良いが、一旦慢心があれば自らがこれを証しあれを証したと思い込み、他人の言葉が耳に入らなくなる。仮に慢心がなく自ら証得したと思わなくても、このような乱雑無秩序な観行は実際の修証に大して益とならない。一時的に禅定を得ても安定せず、いつでも退転する。仮に禅定が退転しなくても、死後は必ず退く。我見を断ずることを実証できなければ、死に臨んで全ての禅定や観行がどれほどの益となるだろうか。

現在の仏教を学ぶ者や説法する者は、実証が無いため学んだ理論の深浅の段階を知らない。どれだけ理論知識が高尚に見えるかだけで学び説き、あたかもそれを学び説けば証得できるかのように非常に忙しく混乱し、次第や方法を欠いている。もし仏法を熏習したいのであれば、唯識に興味があるなら唯識を熏習するのは問題ない。しかし唯識を観行実証するには、我見を断ち三果を証得した後、かつ禅宗の三関を明心してからでなければならない。それ以前に唯識理論を実証する方法は全くなく、絶対に不可能である。修学の次第とは、まず五蘊無我を観行して我見を断ち、次に参禅して明心し、その後得智と初禅を発起して三果となり、牢関を通過する能力を得る。如幻観・陽炎観・如梦観を次第に成就した後、ようやく唯識種智の内容、すなわち一真法界・万法唯識・諸法無我・镜像観・真如三昧などに至る。

もし前段階の基礎的な法を証得していなければ、後の法を如何に観行しても実際の効果はなく、証得することはできない。単に熏習と呼ぶに過ぎない。ある者が説くように、悟りを開いた直後に第八識が如何に根身器界を出生するか観察できるとか、一切法が第八識の種子の功能作用であると直ちに観察できるなどということは、絶対にあり得ない。たとえ真に悟りを開き第八識を証得していたとしても、これらの内容を観察することは到底不可能である。初地・二地・三地の菩薩の境界に至っても、第八識が如何に根身器界・宇宙器世間を出生するか、一切法が如何に第八識の種子の功能作用であるかは観察できない。これらは全て道種智の領域であり、悟りを開いたばかりで道種智があるはずがない。このように説くことは、その者が真に悟りを開いていないこと、悟りを開いたばかりの者が実際に何を観察できるかを知らないことの証明である。

誰であれ、この生涯で真に修行成就し三悪道を流転したくないなら、大いなる心と願いを発し、着実に最も基礎的な仏法から修め始めるべきである。高望みをせず、手の届かないものを追い求め、空中楼閣を築こうとしてはならない。まずは土台を固め、一歩一歩進むこと。飛躍せず、ましてや飛翔しようと試みてはならない。足腰を鍛え、この生涯で真実に我見を断つことができれば非常に良い。三悪道の苦しみを免れれば、それだけで大いに慶ぶべきことである。その上で参禅し、真に明心できれば、すでに相当に優れており、功徳は極めて大きい。それ以外は全て暫く考える必要はない。自分にはまだ遠く、考えても無益だからである。

——生如法師の開示
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