耀霊の観行日誌:昨日、六塵の境界が虚妄で実体のないことを観じ、心の中でそれらを実有的と認めず、次第に六塵の境界に執着しなくなった。自らが「心を起こして六塵の境界に攀縁し分別する」という行為が無常であり、不自在で、消耗であり、苦であることを観じた。なぜ自ら六塵の境界に注目しなければならないのか?再び回光返照し、心を起こして塵境に攀縁分別せず、妄想思惟も起こさず、塵境は本来虚であり、境は自ら名付けない。
さらに諸法無我・万法唯識を観じる。ここでは『金剛経』の「実に法無く、一切法は皆是れ仏法なり」という句を感じた。あらゆる現象が自らの影のようなものなら、なぜ自らの影に注目する必要があろうか?こうして完全に心を起こして諸法を憶念せず、心は自在自明の状態に安住した。心に感ずることが起きなければ、現象も応じない。
境界が明るく澄み渡り、しばらくすると自分が果てしない虚空に入ったように感じ、身体の境界も空間感覚も見出せなくなった。この時「諸法無我」の慧観を守り、境界に攀縁せず、心に恐怖はあるが堅持できた。このような境界は十数分で退去し、毎回観行がここまで至るとこの境界が現れるが、時には状態が退歩し数ヶ月間隔でしか観行できない。この時「言語道断・心行路絶」をわずかに体得し、呼吸も有るか無いかとなり、丹田にのみ微かな呼吸があり、身体の気脈も急速に変化し、精神が速やかに回復した。
評:この観行は精進しているように見え、若干の禅定効果もあるようだが、実際は無秩序で次第を欠いている。学んだ理論を全て取り出して観行したと言うが、実際は観行ではなく熏習であり、意識の思惟分析に堕しており、導き出した結論は意識の結論で、全て学んだ理論そのものであり、中間証明過程も実際の証拠もない。故に単なる理論に過ぎない。多くの人々がこのように観行し、自らが証得したと確信している。
実際ここでの理論は、一つ観行に成功し証得するのに無量劫の時間を要する。それは地上菩薩の唯識種智の範疇に属し、凡夫が観行成就して直接地上菩薩になれるか?明らかに不可能である。例えば諸法無我を観想するのは地上菩薩の観行境界であり、万法唯識も唯識種智の範疇、一切法皆是仏法も同様に唯識種智の範疇である。一切の現象が自らの影であるという場合、この「自ら」を如来蔵と仮称すれば、この境界を証得するのは初地満心位である。六塵境界の虚妄を観行する場合、境界が虚妄である証拠は何も無いのに、意識的に境界の真実性を認めないだけで六塵が虚妄であると代表させるのは観行ではなく経典の復唱である。この場合、意識すら六塵の虚妄を証得確認しておらず、ましてや意根の証得は更に遠い。
多くの人は理論を学び過ぎ、全てを知っているが何も消化吸収できず、心に滞り中途半端な状態にある。これらの理論が対応する智慧の次第を知らず、如何に段階を追って浅から深く実際に証得するか、修学と観行の次第を知らない。慢心が無ければ良いが、一旦慢心があれば自らがこれを証しあれを証したと思い、他人の言葉が耳に入らなくなる。仮に慢心が無く自ら証得したと思わなくても、このような乱雑な観行は実際の修証に益するところ少ない。一時的に禅定を得ても不安定で退転し易く、仮に禅定が不退でも死後必ず退転する。我見を断じることを実証できなければ、死の時全ての禅定と観行がどれほどの益があろうか?
現在仏教を学ぶ者や説法する者は、実証が無いため学んだ理論の深浅の次第を知らず、ただ理論知識の高尚さを見て学び説く。あたかも学び説けば証得できるかの如く、非常に忙乱して次第と方法を欠いている。もし仏法を熏習し唯識に興味があるなら、唯識を熏習するのは問題ないが、唯識を観行実証するには我見を断じ三果を証得した後、且つ禅宗三関を明心して以降でなければならず、それ以前に唯識理論を実証する方法は全く無く絶対に不可能である。修学次第は五蘊無我を観行して我見を断じ、次に参禅して明心し、その後後得智と初禅を発起して三果人となり、牢関を通過する能力を得て、如幻観・陽炎観・夢幻観を次第に成就した後、初めて唯識種智の内容(一真法界・万法唯識・諸法無我・鏡像観・真如三昧等)に至る。
前段階の基礎的法を証得していなければ、後の法を如何に観行しても実際の効果が無く証得できず、熏習と呼ぶに過ぎない。ある人が説くように、悟りを開いた直後に第八識が如何に根身器界を出生するかを観察できるとか、一切法が第八識の種子の功能作用であると観察できるなどということは全く不可能である。真に悟りを開き第八識を証得したとしても、観察できるものではなく、初地・二地・三地菩薩の境界でも第八識が如何に宇宙器世間を出生するかは観察できず、一切法が如何に第八識の種子の功能作用であるかも観察できない。これらは道種智の範疇であり、悟りを開いた直後には道種智はあり得ず、このような説はその人が真に悟っていない証左である。
真に今世で修行成就し三悪道を流転しないと願うなら、大心大願を発し、着実に最も基礎的な仏法から修め始めるべきである。高遠を好み手元を見ず、空中楼閣を築こうとするな。まず基礎を固め、一歩一歩進むべきで、跳躍や飛行を試みず、脚力を練り腿の功夫を養う。今世で真実我見を断じられれば十分であり、三悪道の苦を免れれば慶びである。その上で参禅し真に明心できれば極めて良く、功徳は甚大である。その他は暫く考慮不要で、未だ遠く離れており考慮しても無益である。
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