衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年06月06日    日曜日     第2 回の開示 合計3429回の開示

意識が証果してもなお具縛の凡夫である

意識による悟りの証得は非常に手軽で手間がかからず、多大な代償を払う必要もなく、禅に費やす頭脳や労力も要りません。最も重要なのは禅定を修める必要がないことで、これが一番困難で苦痛を伴う関門を避けられるのです。禅定は時間を要し、足を組む苦行にも耐え、多くの世俗的な事柄を犠牲にしなければなりません。意識による悟りでは戒律を厳守する必要もなく、三帰五戒も免除され、最も煩雑な三十七道品の修行も省略できます。これにより膨大な時間とエネルギーを節約でき、福徳もさほど必要とせず、菩薩の六波羅蜜のうち前五波羅蜜も免除されるのです。理論知識を学び、思考・理解・分析・推測・推理・統合・帰納するだけでよく、いずれの作業も特別な集中力を要さず、過度の精神的負担もありません。これらの作業は秘書の日常業務のようなもので、平均的な知能があれば対応可能です。

このような悟りの証得は非常に低コストで、大した代償を払わずに大量の理論知識で注目を集め、崇拝を受けることができます。妻子を捨てて出家修行する必要もなく、親族との縁を切る必要もありません。男女関係を「衆生を救う」と呼び、世俗の事業を廃することなく、大衆の供養を受けながら菩薩法師として振る舞い、勝義僧を名乗って出家僧を圧倒できます。出家者と在家の利益を兼ね備え、世俗的利益を最大化できるのです。これほど多くの利点がある意識による悟りを、誰が捨てられましょうか。

しかしこのような方法で悟りを証得しても、一切の煩悩を断つことはできず、完全に煩悩に縛られた凡夫と何ら変わりがありません。ある者は「三果と四果のみが煩悩を断つもので、初果と二果には煩悩が残るのは当然」と弁解します。初果者と凡夫の煩悩が同質同量であることも「当然」と言います。もし初果者が具縛凡夫と同じであるなら、初果者は本質的に全ての煩悩を具足した凡夫であり、初果は名ばかりで実体のないものとなります。どうしてこれが我見を断った初果人と言えるでしょうか?このような状態が続けば、仏教が滅びないはずがありません。

世間には邪法や邪師が多数存在しますが、それらの邪法は浅薄で仏教の根本を破壊できず、基盤を揺るがすことはできません。例えば某法師が説く如来蔵説は全くのでたらめですが、仏教の主流の発展に影響を与えることはできません。彼が救済する衆生の資質は極めて浅く、苦心して引き出しても大した成果がなく、仏教に対する脅威とはなり得ません。密教が行う男女双修法は外道の教えで、その次元は極めて低劣です。少しの知恵があれば見分けがつき、陥ることはありません。これに陥る者の大半は業障が深く善根が浅薄な人々で、苦労して救い出しても大した存在にはなれず、仏教の柱となる存在にはなり得ません。仏教を滅ぼし得るものは外道や外道法ではなく、常に仏教内部から発生するのです。獅子の体内に寄生する虫が自らの肉体を食い荒らす如くです。

したがって三世の仏教の基盤と重点は、悟りの証得と明心見性という極めて重要な段階にあります。この段階で重大な問題が発生しなければ、仏教の将来の発展に支障はありません。我見を断ち明心見性を達成する根本法は、誰もが伝授できるものではありません。安易に扱ってはならず、もし衆生の法身慧命を損なうようなことをすれば、たとえ五百世野狐になりたいと願っても叶わず、受けるべき悪果はこれよりも何倍も深刻です。乱れた伝法を支持することは悪事を助長する行為であり、果報も非常に悪くなります。どうか因果を深く考え、仏法を厳粛に扱い、衆生と仏教に対し高度な責任感を持つようお願い申し上げます。

——生如法師の開示
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