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日常法話

2018年04月11日    水曜日     第7開示 合計339開示

塵労煩悩を止滅し、寂静清涼を証得す

問:私はずっと「法塵」の内実について思索してきました。法処所摂色とは、意識によって知覚される微細な色相だけでなく、眼・耳・鼻・舌・身の五識によって知覚される粗大な色相も含まれるべきです。色は心に対応する概念であり、色塵という概念は存在しますが、「心塵」という名相は存在せず、法塵が統括しています。その中で色は半分を占め、心は半分を占めています。法には色法と心法が含まれます。

阿那律は肉眼を持たず、粗大な色相も微細な色相も見ることができます。もし粗大な色が見えなければ、どうして微細な色が見えるでしょうか。肉眼がなく色を見るということは、眼根がなければ当然眼識もなく、意識のみが色を見ているのです。その知覚する法処所摂色は、粗大なものも微細なものも明らかです。

答:十一の色法とは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、色塵、声塵、香塵、味塵、触塵、そして最後に法処所摂色です。

法処所摂色には、色塵処所摂の法塵、声塵処所摂の法塵、香塵処所摂の法塵、味塵処所摂の法塵、触塵処所摂の法塵が含まれます。

法処所摂色の法塵は単独で現れることはなく、必ず五塵と同時に現れ、五倶意識によって了別されます。したがって、識心が了別する法処所摂色には、必ず五塵の粗大な相が同時に現れます。これらの粗大な相がなければ、微細な相も存在しません。阿那律には眼根がなく、肉眼では色を見ることができません。彼が色を見るのはすべて天眼によるものであり、天眼で色を見れば、見えない色はありません。

法塵の概念は非常に広範であり、一切の法はすべて法であり、すべて法塵と呼ばれます。塵とは世間の相のことであり、ちょうど塵埃のように、念々として留まることがありません。『楞厳経』で世尊はこれを客塵と呼び、世間の客人であり、世間に常住することはできず、生じてはまた滅していくものであり、主人ではありません。

そして世間の主人は第八識です。第八識もまた法であり、不生不滅の法であり、常住の法です。しかし塵ではなく、世間に漂い滅していく塵相ではなく、塵労煩悩の相ではなく、出世間の寂静で清涼な相です。ですから、もし誰かが煩悩に心を焼かれているなら、速やかに第八識の中に逃げ込みなさい。

どう逃げ込むのか? 世間の事相を観察することごとくが第八識の無余法であると観じ、自心に起こる相を観察することごとくが第八識の無余法であると観じ、六根を観察することごとくが第八識の無余法であると観じ、自心のすべての分別了知の性質を観察することごとくが第八識の無余法であると観じ、自心の受覚を観察することごとくが第八識の無余法であると観じるのです。このように根・塵・識・五蘊の機能作用のすべてが第八識であれば、すべてが第八識であるならば、いったい何を分別し、何を苦しむというのでしょうか? どこに煩悩の相や苦の相があるというのでしょうか?

このように観じた後は、苦を滅し苦を息めることができ、清涼で寂静な境地に入ることができ、寂静の涅槃の中に入ることができます。第八識に厳々と包み込まれ、世間の一つの法すら見えなくなるのです。なんと快いことでしょうか! 第八識の甘露を独り味わうこと、なんと清涼なことでしょうか!

しかし、第八識を見つけられなければ、どうしてその中に逃げ込めるでしょうか? これは相似の逃げ込み、想像上の逃げ込みであり、真実の逃げ込みではありません。長く逃げ込んでいられず、また出てきてしまいます。究竟的ではありません。ではどうすればよいのか? 速やかに第八識を証悟し、速やかに菩薩の六波羅蜜と三十七道品を円満しなさい。仮の真如三昧は真実の作用を起こすことができず、あまり力がありません。証悟して真実の真如三昧を発起しなければなりません。そうして初めて保証が得られ、究竟的となるのです。

悟り前の観察は想像や推測と呼ばれます。悟った後に初めて観察する能力と智慧が生じ、真実に苦を滅して清涼を得ることができるのです。ただし悟り前にも一定の作用はあり、一時的に煩悩を抑伏することはできます。

——生如法師の開示
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《首楞厳経における弥勒菩薩の唯識観修行説》

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