衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年06月04日    金曜日     第1 回の開示 合計3424回の開示

意識による証果は末法期における修行の岐路

娑婆世界における修行の岐路は非常に多く、大きな善根と福德がなければ真に方向を見極めることは困難です。特に微妙な点においては、その道を歩んだことがないと本当に道を誤りやすく、小さな岐路でも修行時間を浪費するのに十分で、そこから抜け出すのも容易ではありません。まして大きな岐路はなおさら見極めが難しく、脱出も困難です。証果明心は単に意識が証果明心すれば良いのか、それとも意根が意識と共に証果明心しなければならないのか、この問題は小岐路か大岐路でしょうか?煩悩を断たずに菩提を証することができるというのは、大岐路か小岐路でしょうか?

証法の問題は、衆生個人と仏教全体にとって最も重大な問題であり、生死存亡の鍵となる転換点です。したがって他の法は全て間違っても構いませんが、この問題だけは絶対に間違ってはなりません。この問題を誤れば根本原則の重大な問題となり、衆生と仏教の運命に関わる大問題となります。

末法時代が進むほど、仏法修行上の岐路は増えていきます。古代の人々の仏教修行は「修」と「行」と呼ばれましたが、現代人の仏教学習はほとんどの場合「学」としか言えず、修と行に及ぶことは稀です。しかし古代に修と行を実践した人々の中では悟りを得るのが遅く少なかったのに対し、末法時代に学ぶ人々の中では悟りが速く多く得られるというのは、非常に異常ではないでしょうか?もちろん異常です。仏法が将来滅ぶとすれば、ここで滅びるのです。それは修証の根源から滅びるもので、実証がなければ仏法は継続し難くなります。そのため私は長年、意根による証果と明心を説き、意根に関する何冊もの著作を残してきました。仏法が急速に滅ぼされないよう、心を砕いているのです。

私は360度死角なく意根証果を説いてきましたが、それでも鈍根の学者や師匠たちが未だにこの道理を認めようとせず、また認める勇気もありません。一度この理を認めれば、自らの大小乗の果位が泡となり消え去り、凡夫に戻ってしまうからです。本当に悔しいことです!しかしこれは極めて非理性的な行為であり、道業を重んじる者ではなく、法と真理を帰依とする者の姿ではありません。事実を回避するのは大丈夫の所業ではなく、我執の表れです。

もし衆生の善根と福德が深厚であれば、たとえ岐路に遭遇しても自らの善根福德によって最終的に岐路を脱し、正しい道に戻ることができます。よって仏を学ぶ者は皆、福徳を多く修め、善根を多く培うべきです。そうしてこそ今生と来世において岐路に入らず、法を選ぶ眼と弁別力を得て、誤った導きに惑わされず、悪道に入ることを防げます。末法時代が進むほど、福を修める機会は増え、善根を培う機会も多くなります。真に成道を願い大いなる誓願を発する者は、全ての機会をしっかり捉え、善根と福徳を多く培うべきです。そうすれば生生世世にわたって計り知れない利益を受けるだけでなく、仏道修証の過程を加速させ、智慧による解脱を早めに得て、自利利他を成就できるでしょう。

——生如法師の開示
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