この数日、私は朝5時に起きて観行に励んでおります。座っているうちに丹田から強大な気流が立ち昇り、私をしっかりと包み込み、足を縛りつけました。気流はさらに腰から頭へと上昇し、呼吸さえも非常に困難になりました。私は座ったまま「私は誰か」という公案を参究し始めると、やがて大声で泣き出し、地団太を踏み胸を叩きました。そして座席から立ち上がり、仏前にひざまずいて額を床に擦りつけて礼拝いたしました。礼拝すればするほど涙が溢れ、ああ!私は醜く老いた老婆ではないか?いつも貪り食い貪り眠り、自己中心的な者ではないか?あらゆる卑しい行いはすべて私であり、この汚れた革嚢を憎んでおります。ついに再び仏前に跪いて懺悔いたしました。私はただの汚れた革嚢であり、私のような者は地獄に堕ちるしかないと。
その後、再び座席に戻って観行を続けると、身体がしっかりと定まってしまい、こうしているうちに知らず知らず二時間が過ぎておりました。その時、子供の食事の支度をしなければと思い立ち上がりましたが、動作は非常に緩慢で、頭もあまり働かず、機械的に動作をこなすだけで、他のことはすべて私とは無関係でありました。
昨日の坐禅も同様であり、法師の書かれた意根懺悔文を思い出し、私は自分自身に「お前は何者だ?懺悔文のどの条項にも違反しているではないか」と言い聞かせると、知らずに禅定の中で再び泣き出してしまいました。幸い座席からは立ち上がらず、坐禅を続けながら懺悔いたしました。すぐにまた二時間が過ぎ、その時子供も起きてきたため、坐禅を下りざるを得ませんでした。坐禅中に何度か香気が生じ、下座する際も一昨日と同様に動作が非常に緩慢でありました。お伺いいたしますが、このような修行はよろしいでしょうか?これは不浄観なのでしょうか?本日の坐禅は随分楽であり、身体の痛みもなく、心もずっと安らかで、あっという間に一時間以上が過ぎました。どうか法師のご指導をお願いいたします。
評:この懺悔の初期効果は非常に良好であり、心の清浄、身体の軽安、禅定の増長という効果が得られております。しかし懺悔において自らの過ちを知ったなら、地獄や三悪道に堕ちるとかといった自らを呪う言葉は不要です。いかなる悪しき呪いや言葉も加えるべきではありません。口にした言葉は将来現実となります。善き願い、良き願いを発し、過ちを改めようとする心と行いを持ち、悪しき心と行いを正せば十分です。自らを過度に憎む必要はなく、他者に対しても同様に、良き祝福の念を持ち、悪しき呪いを用いてはなりません。
懺悔は宿世の悪業を消滅させ、業障が消えれば覆いも消え、身心ともに軽安を得て深い禅定に入ることができます。観行と思惟が順調となり、修行は容易に正しい道に入り、かつ急速に進展します。坐禅中に香りを感じた場合、それが自身の身体から発せられるものであれば、自らの心が清浄になり身体も清浄になった証であり、香気が生じるのです。時に鼻孔から、時に歯の間から、時に喉から、時に全身から香気が立ち上ります。もし香りが外部から鼻孔に入ってくるものであれば、それは仏菩薩や護法神があなたを見守っておられるか、あるいは天人たちが参集してあなたを見学し、学んでいることを示します。
あなたの現在の思想と認識からすれば、やはり五蘊を観行して我見を断つことから修行を始めるべきであり、早々に禅を参究すべきではありません。まず我見を断ってから禅を参究すれば比較的順調に進みます。我見を断たずして真実の自性を証得することは不可能です。ご高齢であれば、なおさら清浄なる大願を多く発し、命終の際に確実に極楽浄土に往生できるよう努め、その後再び娑婆に戻って衆生を救済すべきです。命終に極楽往生を遂げることは非常に優れた帰処であります。
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