仏は言われた:「阿難よ、汝は常に我が毘奈耶の中で説かれる修行の三決定義を聞いている。すなわち心を摂することが戒となり、戒によって定が生じ、定によって慧が発する。これを三無漏学と名づける」。
毘奈耶は経律論の三蔵の一つであり、仏の説かれた戒律である。また自心を調伏し、身口意を調和させる意味でもある。調伏の結果、煩悩を降伏させ断除し、心に漏れなく、身口意に煩悩なく、無明を離れ、ついに成仏する。
なぜ心を摂することが戒となるのか。どの心を摂すれば戒が成就するのか。心を収めない時、身口意は妄動する。身体はすべきでないことを行い、行くべきでない所へ赴き、動くべきでない時に動く。重ければ殺生・盗み・淫行を造作し、禅定を成就できない。軽微な身体の妄動も禅定を妨げる。身体が定まらなければ禅定はあり得ない。
心を収めぬ時、口は妄語を吐く。言うべきでないことを言い、語るべきでないことを語る。重ければ虚言・綺語・両舌を犯し、五戒十善に背く。心清浄ならざれば禅定は不可能だ。五戒十善に違えぬ場合も、口が乱れれば心も乱れ、心行多くして寂止せず、禅定は得られない。
心を収めぬ時、意業は必ず不浄となる。思うべきでないことを思い、慮るべきでないことを慮り、観ずべきでないことを観ず。貪瞋痴の煩悩が現前し、心の水が濁れば、どうして定があろうか。
思うべきでない人を思い、慮るべきでない事を慮り、掛けるべきでない情を掛ける時、心はどうして寂止できようか。打坐すれば、これらの影像が自心を遮障し、観行思惟を妨げる。もし仏菩薩の影像に換えれば、加持を受け心清浄となり、直ちに禅定を得る。
心を収めぬ者は、己に関わらぬ事柄に執着し、心に隙間なく満ち溢れる。心の水が激しく騒げば、どうして定があろうか。財色名食睡に心を奪われ、六塵の影が重なり合えば、心は空ならず、禅定は得難い。
禅定が修められぬと嘆く者は、自らを検べよ。何が心を遮っているか。これを解決し心を空ずれば、禅定は自然に成就する。禅定を妨げるのは貪瞋痴の煩悩であり、世俗法に執着して放さぬことだ。
心が境界に流され続ける者は、自心を観察する智慧を持たぬ。境界から離れ、心と境を分かつ時、覚照力は強まり、諸法実相を悟り、禅定は自然に増長し智慧が現起する。
戒によって定が生じる原理とは、心を収めることが戒であり、心が非を起さぬことが戒である。第七識である意根を制すれば、六識の身口意行を統御する総开关を握ることになる。将軍を降伏させれば、兵卒は従順に従う。禅定の得られぬ道理はない。
最も重要なのは定によって慧が発することだ。禅定の力が智慧を生じさせる。芽が土を穿つ如く、心に力なき時は智慧も生じない。
仏が遺した三無漏学の宝を、戒定の二つを捨ててはならない。前二者なくして最後の慧は得られぬ。真の戒定慧は六識の表面ではなく、第七識意根の心行にある。意根が戒定慧を体得する時、ついに成仏を究竟するのである。
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