衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年06月02日    水曜日     第2 回の開示 合計3421回の開示

念慮とは究竟何か

6月2日付の観行ログ:

最近座禅時に身心を調伏する過程で、観想念仏・般若心経黙誦・念仏・楞厳咒・身体三十二物観・法塵の変異生滅観などの方法を用いて心念を集中させ、浮ついた状態を解消している。 野馬を調伏するように、その好み・欲求・執着原因を様々な方法で探り、根本原因を解決して初めてその欲望や想念が消える。

身体三十二物の変異生滅を逐一観じる方法が特に効果的だと実感する。「髪・毛・爪・歯・皮」の「髪」と作意し始めると、心念が静まり渡る。三十二物を概観した後、この覚知し観察し分別する心がどのような形か・どこにあるか・所依所縁・作用範囲・心識との差異を反照する。

観行時は「私は誰か」という疑念を保持し、色身と心識において法ごとに状態特性・作用範囲・条件・差異などを反復体証するうち、ある時突然学んだ法義と符合する瞬間が訪れる。知識の理解と観行体験の差異が明らかになり、結論が同じでも体感次元が異なることが分かる。

妄念が生起しても抑圧せず、法塵が浮上する原因・本質・出所・所依所縁を観じると、「你我他」のラベル貼りや是非善悪の分別が発見できる。これが喜怒・焦燥・憂鬱・渇望などの情動を生み、清浄な心を塵のように覆い縛っている。これらは過去の記憶が残した法塵に過ぎず、心ではなく心から離れず、自性なく心田の記憶名相であると悟る。法塵を解決すれば色塵・声塵・触塵など五塵の本質も明らかになる。

これが妄念生起の真因である。法塵を反復認識分別することで執着を放下し、放下後に初めて解脱が訪れる。抑圧は根本解決にならず、妄念を降伏し難くする。

観行前には必ず聞思を成熟させねば智慧が生起せず、観察分別の方法が分からず止だけに留まる。医師たちは身体の生老病死を現量観察しても「身体が私」という観念を変えず、生命本質を探究しない。故に観行前の聞思成熟が基盤と実感する。

次に色身と心識の相互影響を観じ、起心动念に因果応報があると深く信じることで内心が次第に安寧になる。

最終的に鼻孔の呼吸に安住する。呼吸が微細化すると全身が呼吸するように感じ、内外の境界が消失する。定力が深まると無我無主の状態になり、身体概念が薄れる。現在は単座一時間可能だが、痺れ痛みで心力が弱まると座を組み替える必要がある。

下座後は太極拳を練習する。座禅観行と同じく静謐で緩慢な状態に入り、無我無主の中で呼吸が整い、腕や脚が空中を動き、鳥の声が虚空に響き、形なき心だけが覚知する状態を体得する。

日常生活では三十二物の色身観念を持続させ、色身全体を見ず無常無主を観じる。まだ無間作意には至らない。

評:一切の念想・観念は無明から生じ、無明には出所も去所もなく幻法である。妄念・観念が無出所の無明から来ると知れば真に受けず、看破して妄念の起伏に随わず如如不動でいれば、無明の念は自ずから消え心が清浄安寧となる。縁を観じれば明らかになり無明が薄れる。人間の観念は去来し留まらず、変化を看破し追随せねば心は自然に清凉となる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

いかにして自心の念を悟るか

次の記事 次の記事

善も思わず悪も思わぬのはどの識か

ページのトップへ戻る