6月2日の観行記録:
近時坐禅時に、身心を調伏する過程において、観想念仏・般若心経黙誦・念仏称名・楞厳咒誦持・身体三十二物観察・法塵の変異生滅観察等の方法を用い、心念を専一にし、浮ついた不安を鎮めてきた。 恰も暴れ馬を調伏するが如く、その好むところ・求めるもの・何故に好むかを知り尽くす様々な方法を用い、原因を探り当て、その原因を解決して初めて、この方面の欲望と念想を断ち切れるのである。
自覚的には坐禅後に、一法一法と身体の三十二物の変異生滅を観じるのが極めて有効である。「髪・毛・爪・歯・皮」の「髪」より作意を始めるや、心念は静まり、三十二物を概観した後、再びこの覚知し観察し分別する心が如何なる様態か・何処にあるか・所依所縁・作用範囲・心識との差異を反照する。
観行の際は、「私は誰か」という一つの疑念を保ちつつ、色身と心識の中で一法一法と反復体験し、各々の法の状態特性・作用範囲・条件・差異等を択別していると、知らぬ間に所学の法義と符合する時が訪れる。所学の知識的理解と観行体験後の感覚は結論こそ同じながら異なるものであると悟るのである。
時に突然妄念が湧くも、これを押さえつけず、私の方法はこれらの法塵が浮上する原因・法塵の本質・出処・所依所縁を観じることである。後に気づくに、私はこれら全てに「你我他」というラベルを貼り、それらを是非善悪で量り、喜怒・躁動・鬱憤・焦慮希求といった捨て難い情念を引き起こし、塵埃の如く本来清浄な心を覆い隠し、抑圧し、縛り付け、束縛している。まさに自縄自縛である。これらは過去の記憶が残した法塵に過ぎず、心そのものではなく、心を離れて存在せず、自体性を持たぬ己が心田の記憶名相に過ぎぬ。法塵を解決すれば、連鎖的に色塵・声塵・触塵等の五塵の本質・出処・所依所縁も認識できる。
これこそが妄念生起の原因である。初めは常に法塵を反復認識・択別し、心の執着を捨て去らねばならぬ。捨て去って初めて釋然とし、収摂される。抑圧する方法は根本解決にならず、只其の然るを知って其の所以然るを知らざるが如く、妄念は降伏し難い。
次に観行前には必ず聞思を成熟させねばならぬ。然らずんば智慧が生起せず、如何に観じ択別すべきか分からず、止はあれど観慧がない。例えば医師は皆身体の出生・変異・老死を一定の現量観察するが、「身体は我なり」との観念は変わらず、智慧がなく生命の本質を探求しようともしない。故に観行前の聞思成熟が基礎であると自覚する。 その後、色身と心識の相互影響を観じ、起心动念には必ず果報があり自業自得であると深く信じれば、内心は愈々安寧となる。
終に鼻孔の呼吸に安住する。時に呼吸が微細になれば、全身が呼吸していると感じ、身内身外に境界はない。定力が良ければ身心が無我無主の状態にあり、次第に身体の概念も消える。現在は単跏趺坐で概ね一時間足を替えずに保てる。下座後は精神が充実している。但し足の痺れ・張り・痛みで心力が弱まる時は、足を替えねば続けられない。
下座後は外出し太極拳を練る。坐禅観行と同様に、静かで緩やかで軽やかに観行状態に入る。身心は無我無主の状態にあり、呼吸は均等で、何者も存在せず、只だ腕と足が空中で緩やかに動き、只だ鳥鳴が空寂の中に起落し、只だ形も相も場所も無い心が覚知している。何者も存在しない。
日常生活では、努めて三十二物の色身心念を提起し、色身の全体を見ず、かくして色身の無常無主を観察する。現在は未だ無間作意を形成できない。
評:一切の念頭・思想・観念は無明より来る。而して無明には出処も去処もなく、虚妄の法である。既然って妄念・思想観念が出処なき無明より来るなら、真に受ける必要はなく、これを見破り見透かし、妄念の起落に追随せず、如如不動であれば、徐々にこれらの無明念頭は自ずから消え、心は清浄安寧となる。再来観所縁は朗然として明らかになり、無明は薄らぐ。人類の思想観念は去来し、留めようとしても留まらず、常に変転して止まず、固定できぬものだ。これを見破り、構わず、これに動かされなければ、心は自ずから清涼である。
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