衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年06月02日    水曜日     第1 回の開示 合計3420回の開示

いかにして自心の念を悟るか

自分自身を理解し、自らの心の念いが善であるか悪であるか、汚れているか清浄であるかを知りたいなら、どうすべきでしょうか。なぜ多くの人々は絶え間なく自らの汚れた心の行いや煩悩に従い、汚れた業行を造り続けるのでしょうか。それは覚悟がなく、自覚力が欠如し、自らの一つ一つの心の行いや念いがどのような結果を招き、どのような果報をもたらすかを知らず、ただ感情を発散させて一時の快適さに満足し、将来の多大な苦痛を顧みないからです。これが衆生の無明と短見です。

自らの心の行いと念いを覚るには、まず因果を信受し、次に因果を明らかに知る必要があります。一切の身口意の行いには因果があり、因縁が熟せば必ず善悪の果報を受けること、自らが人や事に対して行った全ては最終的に自分自身が引き受け、善をなせば善報を、悪をなせば悪報を受けるという因果の法則から逃れられないことを悟らねばなりません。そうすれば自ずと身口意の行いを意識するようになりますが、定力と慧力が不足しているため、習慣的に不善な身口意行を造り続け、自覚できないことが多いのです。

これには定力を養い、内観力を高め、心を細やかにし、観察力を鋭くする修定が必要です。常に自らの心の念いを捉え、心の最深部にある考えや煩悩の念いを観察できるようになれば、深く透徹した自己理解が可能になります。不善な念いを直ちに改め煩悩を降伏できなくても、ただ知り続けることで、長い時を経て徐々に自らが変化し、やがて自らの変容に驚くことさえあるでしょう。

定慧双修・定慧等持の四念処観行を通じて定力と慧力を増し、覚性を高めることができます。日常の対人関係や事柄に際して自らの心の念いを内省し、心の奥底にある真の考えを観察した上で、自問すべきです:この行為は自他にどのような益があるか?どのような結果を招くか?この結果は自己を解脱させるか束縛するか?将来この結果を受け入れられるか、耐えられるか?

自心を観察する事と四念処を観行する事は同じ理です。四念処は定に始まり慧に終わり、目標は慧の生起にあり、慧が生じた時に初めて我見を断じて果証を得解脱します。自らの心念を観察するのも同様で、その結果生じるのは自己と結果を認識する智慧です。この智慧があれば必ず煩悩を降伏させ断除し、将来善業の楽果を受けることができます。起動する心念が人の禍福を決定し、悪不善の念いは禍を招き福を損ない、善念は福を生み災いを免れます。多くの人は様々な順逆境に出会ってもその原因を知らず、心が粗い者はそもそも原因を考えようとせず、逆境は自然に生じたものと思い込み、自らの業行が招いたものと気付きません。自らの悪業によって福は長続きせず、禍は免れず、人生の苦海に波立ち漂い、境遇に翻弄されるのです。

自心を観察しなければ慧は生じません。意識が心念を観ずれば、法が現量のまま意根に現れ、意根は法をありのままに対面します。対面後、意根は法に留意し専注し、思量を起こし、理に適った思量の後に結論が生まれます。意識が観察せず心が散乱すれば、意根は観るべき法に住せず、法を知らず証しません。意識に禅定がなく散漫な観察では、意根も同様に散乱して縁を攀じ、観るべき法に集注できず、法を如実に観察思量できないため、法を知らず証せないのです。故に過去の禅師や仏在世の弟子たちは、意根の法を理解していなくても、深甚な禅定を有していたため明心証果できたのです。

自心を観察しなければ、第六・第七識はこの法に作意せず、後の触・受・想・思の心所法も運行せず、定心所と慧心所も現れないため、何も知ることができません。自心を観察せず念に随って流転すれば、我は念となり念は我となり、その中に陥って自ら抜け出せなくなります。「知」という一字は極めて重要です。心念は盗人の如く、家に賊が入ったら知り覚めて監視すべきです。賊は発見されたと知り、盗みを恥じて去っていくでしょう。

故に境界が来たら知り、心念が現れたら知り、境界に追従せず心念の流転を許さず、正知を保つべきです。昔は知らなかったため、犬が石を追うように愚痴り、物音に吠え立て、風で草が動いただけのことに気付きませんでした。人は痴犬と変わらず、常に境界を真実とし、心を動かし人我是非を生じ、優劣を争い、一口の食を巡って頭を割れ血を流す。衆生は憐れむべき存在です。自らを変えるためには、自心を観察する修行を重ねねばなりません。

——生如法師の開示
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