仏が菩提樹の下で成道した直後にこう語られた。「奇なるかな、大地の衆生は皆如来の智慧徳相を具えているが、ただ煩悩妄想によって証得できないのである」。
大方広如来蔵経において仏は説かれた。「仏は衆生を見るに、如来蔵が既に存在することを知り、これを開顕せしめんがために経法を説き、煩悩を除滅し、仏性を顕現させる」「しかしながら彼の衆生は煩悩に覆われているが故に、如来は世に出て広く法を説き、塵労を除滅し、一切智を清浄にするのである」「我は仏眼をもって如実にこれを観じ、善巧方便に随って法を説き、煩悩を滅除し、仏の知見を開示し、普く世間のために仏事を施す」。
「我は仏眼をもって諸の衆生を観るに、煩悩の糠籺(こうかく)が如来の無量の知見を覆い隠している。故に方便をもって応に説くべき如く法を説き、煩悩を除かしめ、一切智を清浄にし、諸の世間において最も正しい覚りを得せしめる」「我は衆生の種々の煩悩が長夜に流転し、生死無量なるを見る。如来の妙蔵はその身内にあり、儼然として清浄で我と異ならない。この故に仏は衆生のために法を説き、煩悩を断除し、如来の智を清め、転じて化導し、一切の世間を救う」「如来は一切衆生を観察し、仏蔵が身にあり、衆相が具足することを見る。このように観じた後、広く顕説する。彼ら衆生は清凉を得て、金剛の智慧をもって煩悩を打ち破り、清浄なる仏身を開顕する。金像の現出するが如くである」。
以上の仏説は、衆生が煩悩の覆障によって自らの如来清浄の宝蔵たる如来蔵を見ることができず、煩悩を断除し覆障を消滅させて初めて如来蔵が顕発され、衆生の智眼が清浄になって自性清浄の如来蔵を証得できることを示している。ここから、我々が仏法を学び修行するに当たり、もし粗重な煩悩の障礙を降伏・断除できなければ、心は清浄を得ず、如来蔵を証得することも我見を断つこともできないと分かる。もし煩悩がなければ、心は水の如く清らかになり、衆生はただ世間の如来蔵性と一真法界のみを見て、世間相を見ず、世間相を真実の我相・我所相と認めることがなく、我執も法執も生じず、衆生は本然のままに解脱し、本然のままに仏であるから、仏法を学び修行する必要はない。
我見を断つ深さと煩悩を断除する程度には必然的な関係があり、明心の智慧の程度も同様に煩悩を断除する層位と必然的な関係がある。煩悩を断つほど多く深くすればするほど、我見を断ち明心する智慧は深まり、果位は高くなる。もし衆生が仏法を学ぶに当たり、只管に理論的知識を学ぶだけで自らの煩悩を顧みず、煩悩が現行するのを認めながら除滅しようとしなければ、大小乗の見道を得ることはできず、ただ俱縛凡夫として生死流転を続けるのみである。故に、いわゆる証果や明心をしたと称する者でも、もし煩悩が依然として甚だ深重であれば、疑いなく証果も明心もしておらず、ただ仮の名があるに過ぎず、大衆が学び倣うに値しない。
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