多くの心理学者などの社会人は仏教を信じず学びもしないが、意識と潜在意識をはっきり区別できる。ところが私たちのように唯識を学ぶ者は、両者の区別がつかないとは、実に恥ずかしいことだ。唯識学者、唯識の専門家、研究者たるものの観察力、思考力、智慧が、禅定も般若の唯識的智慧も持たない心理学者にすら及ばないのであれば、一体何が唯識の専門家、研究者なのか。なぜこのような状況が生じるのか理解できない。
甲:私の理解ではこうだ。ある種の学者、芸術家、研究者は、常に研究に没頭し日夜考え続けるため、集中力が強まり、しばしば三昧の状態に入っていることに気づかず、そのため微細な観察が可能になるのだ。
乙:彼らは宗教的な枠組みにこだわらないからだ。宗教的な是非善悪にも固執しない。宗教的信者こそが自らを縛り、思考概念の世界に生きているのを私は多く見てきた。
その通りだ。彼らには禅定があるが、それは意図的に修めたものではなく、非常に大きな興味と愛着によるものだ。
これらの学者は研究・探求活動に対して情熱と責任感を持っている。だからこそ一心に集中でき、他の人や事柄には興味を示さず、真理と事実を発見できるのだ。
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