理知ある者は、常に意識と意根が互いに抗争し競い合う状況が生じます。特に仏法を学んだ後、意識がある程度の道理を理解すると、両者の間に矛盾や対立が生じ、意識が逡巡する状態に陥りがちです。これは意識が一定の真理を理解し、理性的思考を獲得したことで自らの見解や観点を持つようになる一方、意根が歴劫以来の慣性作用から脱却できず、習気に固執して頑強に抵抗するため、両者が衝突して膠着状態を引き起こすのです。
仏道初心者が意根に薫習を受けず、仏法修行の利益を理解していない段階では、逆境に遭遇するとすぐに修行を放棄しようとします。しかし意識心は既に仏法の種々の功徳を感じ取り、修行を好むようになっています。ここに両者の対立が生じ、意識心は逡巡します。仏道を志すのは必ず意識心です。意識心は道理を理解していますが、意根はまだ真理を悟っておらず、意識心が仏法を学び修行者と交流する中で修行の利益を知るからです。しかし意根がこの理を深く理解していないため、少しの困難に遭遇すると退却し、修行放棄を決断するのです。
修行を断念しようとするのは潜在意識・無意識の意根で、これが意識心に暗示を与えます。しかし道理を理解した意識心は、意根の暗示を顧みず断固たる態度を取るか、あるいは多少逡巡し熟考する可能性があります。この二つの心が常に抗争を繰り広げるのです。所謂る抗争とは、意識心が真理を知り正しい道を理解しているのに、意根がそれを知らず拒絶する状態を指します。意根は習気に支配され、安逸と怠惰を習慣とし、精進の心所法と調和しないからです。
意識心は教法を学び放逸や安逸の弊害を理解し、安楽に耽るべきでなく精進修行こそ最善と知るため、二つの識心は意見を異にし思想的抗争を起こします。内心で思量を重ねる主体は主に意根ですが、意識の思惟作用も共に作用しています。意識の思惟は顕著で観察しやすいのに対し、意根の思量は極めて把握困難なため、意根は暗意識と呼ばれ深層に潜伏しているのです。最終的な帰結は両者の力関係で決まります。意識心が十分に薫習され意根の慣性に抗えるほど強固であれば、思惟活動を通じて意根を説得し、修行継続を決断させます。
もし意根の習性が優勢となれば、意識心は意根の決定に従うほかありません。畢竟、主導権は意根にあり、意識が説得に失敗すれば意根の指揮を受け入れるからです。こうして意識心は修行を放棄し懈怠に陥ります。従って我々の意識心は仏法を深く学び道理を究明し、これをもって意根を啓発・教化・説得すべきです。意根は意識心の思惟を通じ、仏道修行の真意とその合理性を理解し、いかなる逆境に遭遇しても修行を堅持する決意を固めるでしょう。
修行を重ね意根が真理を悟るに至れば、その習性は漸次転換します。意根が悟る真理が深まるほど、最終的に証得へと至ります。所謂る証得とは、意根が「まさにこの如し」と覚知することを指します。意根が覚知せず意識心のみが知る状態は浅薄で決定的作用を及ぼさず、真の証得とは言えません。
たとえ意識が多くの道理を知っていても、意根の審判を経なければ実践に移せません。意識が道理を理解し報告書を提出すると、意根が審査し真理と認めて裁可を下すことで、我々は我見を断じ明心するのです。故に修行の究極は意根を修めることに帰着します。最初は意識心を修め、意識心が悟った真理を意根に定着させることで、あらゆる教法を証得できるようになるのです。
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