いかにして一切の法が意根の道具であり、意根が一切の法を必要とし、一切の法を解決することを証明するか。
楞厳経において世尊はこの問題について説かれている。天地が生まれる前、存在したのは意根と第八識のみであった。意根は混然としており、法界を明らかにしようと外に向かって縁を求め探求した。そこで第八識はそれに従って天地宇宙の器世間を生じさせ、続いて五蘊・六識が生まれ、十八界が具足した。かくして意根はこれらの法の中で遊び回り、ついに外に出ることができず、これらの法にしっかりと縛られ、自在と解脱を得られなかった。ついに善根福德の因縁が具足した時、意識に導かれて三界の世間法の実相を探求し、生命の意義を探り、生死を離れる道を見出し、一切の無明を破り、実相に帰って大解脱を得た。家に帰って安坐したが、また帰る家もなく、天下は初めて太平となり、一切の法は寂静に帰し、万事うまくいき、また万事もない。
意根は第八識を牽いて五蘊世間の一切の法を創造し、また五蘊・六識を用いて真諦を探し求め、無明の闇を破った。実際にはやはり第八識を利用してこの一切の過程を完成させたのである。ここに第八識が意根に弄ばれて従順であることが見て取れ、大人の大いなる量、子供の遊びに付き合うのも何の妨げがあろうか。意根という子供が次第に成長して物事を理解するようになると、もはや悪戯をせず、第八識に悪事をさせることもなく、遊びにふけることもなく、根も葉もないことを起こすこともなく、第八識の大人の大いなる量に習い、心の量が広大となる。かくして寂静に至り、三界は静寂となる。さらに第八識の大人の大いなる量に習い、他の子供たちが皆成長するのを助け、皆が大人になれば、すべての世界は太平となるであろう。
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