小乗仏教においては我見を断じなければならず、三十七道品を必ず修め終え、七覚分を具え、八正道を具えなければなりません。喜覚分と猗覚分の現象が現れ、次に定覚分が現前します。これらは全て禅定と切り離せないものであり、すべて禅定に属します。
仏法を思惟する過程においては、身心の軽安が生じ、内心に喜悦の現象が現れるべきです。これは七覚分の内容です。仏法がすでに心に入り、一定の程度で認められていますが、まだ完全ではなく、四加行の暖位が現前したとも言えます。
今となって見ると、確かにいかなる法の証得も意根に関わり、すべて定に関わっています。七覚分はまさにこの状況を説明しており、これによって仏経の根拠が得られました。
定慧と意根は須臾も分離できず、意根が証得するのは観察慧であり、意識が単独で証得するものには大智慧はなく、学人が言語を弄するに過ぎません。
七覚分は非常に良い証拠であり、八正道の中には定があり、「正」とは主に意根が正しくなることを指し、主となって一切の行為が正しくなることを決定します。意根が改まっていなければ、八正道は存在しません。
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