善い因には善い果があり、悪い因には悪い果があり、善くも悪くもない因には善くも悪くもない果がある。すべては因果の中にある。これらの因果はすべて如来蔵によって真実のままに実現される。如来蔵は一切の業因果応を平等に実現し、その固有の因果律に従って、冤罪や誤った裁きは決して起こらない。我々が仏法を学び修行する目的の一つは、悪しき因縁果報を改め消滅させ、善き因縁果報を増やし続け、究極の清浄無余の仏果を成就することにある。
業因は五蘊が世俗法の中で造り出し、果報もまた世俗法の中で実現される。世俗法である以上、それは虚妄の法であって真実不変の法ではなく、すべて如来蔵が幻化した虚妄の相である。相は存在するが、その本質は空である。衆生は五蘊世間の一切の法を実体あるものと執着するがゆえに、五蘊のために一切の業行を造作する。もし真に五蘊が我ならざることを証得し、五蘊への執着性を断じたならば、もはや容易に悪業行を造作することはなくなる。
業因果報が空であり仮のものであっても、報いを受ける時には非常に苦悩を伴う。したがって我々は因を識り果を達観し、悪業を造らず善業のみを造り、生々世々に善果を享受しつつ仏果を目指す必要がある。世尊は慈悲深く、この五濁悪世に来臨され、様々な言辞をもって教えを説き、衆生が五蘊を我とする邪見を破るよう導かれた。それによって衆生は最終的に解脱を得て自性に帰ることができるのである。我々は世尊の教えに従い、悪を断ち善を修め、一切の煩悩と染汚を除き、心を清浄にし、自利利他を実践し、一日も早く仏道を成就し円満な仏果を目指すべきである。
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