衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年04月23日    月曜日     第1 回の開示 合計403回の開示

身・口・意の業とその果報

身口意の行為は、現れた瞬間に業となる。身は身体の行為造作、口は言語の行為造作、意は七識の心の思想行為造作である。いかなる衆生でも、行為造作があれば必ず業があり、果報がある。その善悪性と軽重性は身口意の行為によって決まる。身体行為の造作には善悪と軽重があり、言語行為の造作には善悪と軽重があり、七識の心の思想行為造作には善悪と軽重がある。ゆえに果報にも善悪と軽重が生じる。故意の行為には故意の果報があり、過失には過失の果報があり、果報を受けないものはない。意業を犯さない、あるいは極めて軽微なのは、貪瞋痴の煩悩を断った三四果の聖者と地上の菩薩のみであり、その他の者は皆意業を犯す。口業は身業よりも犯しやすく、多くの者は口に遮りがない。身体で業を造る者はさほど多くない。もし身体で多く業を造る者がいれば、それは貪瞋痴の煩悩が極めて重い者である。

身口意の行いが造る一切の法は、すべて種子として収蔵される。聡明な智慧は収蔵され、後世において同じ事柄に対し依然として聡明な智慧を持つ。理解できなかったことは来世も依然として理解できない。あらゆる事業は、善悪あるいは無記を問わず、如来蔵がすべて記録収蔵する。為したことに無駄はなく、為したことが無に帰することは決してない。口にした言葉も無駄にならず、後には必ず果があり、清算がある。

業種は因縁が具足して初めて現行する。無量劫の業種は一斉に現行せず、どの業種が先に熟するかによって、その業の果報が先に実現する。もしすべてが同時に現行すれば、善悪が交錯し、喜楽と苦恼が入り混じった果報が現れ、因果は一層錯綜した様相を呈することになる。

——生如法師の開示
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