時として仏法を学ぶと、意識は「自らが全てを変えられ、風雨を呼び自在に操り、一念発起すれば何でも成し遂げられ、成仏さえも容易である」と思い込みます。しかし実際には、一つの妄念すら制御できず、固執した事柄は手放せず、身・口・意の行為は何も変わりません。これはなぜでしょうか。末那識(意根)の実証が不足しているため、意識の思い込みや理解だけでは何の役にも立たず、地に足がつかず、力を発揮できず、無力感に苛まれるのです。たとえ成仏が容易に思えても、三阿僧祇劫の修行を着実に経なければなりません。悟りを得ることが白菜を食べるように簡単に思えても、四正勤・七覚支・八正道を一歩一歩修め、戒律を守り禅定を修め、四念処を実践し、菩薩の六波羅蜜を着実に完遂しなければなりません。仏が説かれたこれらの修行道は無用な飾りではなく、必ず実践すべきものです。大多数の人は一生をかけてもこれらの前提条件を修めるのが精一杯であり、これらの条件が円満でなければ、意識の推論や空想で悟りを得ることは不可能です。
なぜそう言えるのでしょうか。実修実証は末那識(意根)に関わるからです。三十七道品と六波羅蜜の修行過程では、常に末那識を薫習し、その固着した知見を変容させます。修行が十分に行き届いて初めて末那識の知見は変容し、それに伴って全てが変化し、その時こそ真の悟りが得られます。しかし末那識は自らの固着した知見を容易には変えません。末那識が変わらなければ、何も変わらないのです。ゆえに仏道を学ぶには着実な実修が不可欠であり、意識の妄想は無益です。「明日にでも成仏できる」と思えても、それは三大無量劫を経て後のことです。ある者は「相を取らず分別せず、心に住着しない」と高論を述べますが、それは初地以上の菩薩の境地の話であり、地前の菩薩には到底できません。意識で我見を断ち、意識で悟りを開き、意識で成仏するなど、まず夢の中で試してみてはどうでしょうか。どうであろうか。
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