一切衆生の胚胎と根身器界には、如来蔵が執持しているため存在し作用することができる。如来蔵はこれらの法が現れ作用する根本因であり、それに応じた縁によって胚胎と根身器界を出生させ、その後これらの法を継続して運行・作用させる。
例えば雌鶏が卵を産む場合、表面上は卵が雌鶏によって生まれたように見えるが、実際には如来蔵が幻化し出生させたものである。そして因縁が成熟すると卵は雛に孵化する。表面的には雌鶏が産卵できるように見えるが、その裏には如来蔵の働きがある。雌鶏に如来蔵がなければ卵を産むことはできず、雌鶏そのものも存在しない。ここには多くの如来蔵法の奥義があり、私たちが証得し明らかにすべきものである。
例えば衆生が両性和合する時、精子も卵子もそれぞれの如来蔵が執持している。一衆生の如来蔵が精子を執持し、他の衆生の如来蔵が卵子を執持し、両衆生の如来蔵によって初めて精子と卵子が結合する。その後、入胎を待つ衆生の如来蔵がこの和合物を執持して受精卵となり、胚胎が形成される。如来蔵は胚胎を執持し創造し続け、絶えず四大の種子を送り出して胚胎を次第に成長させ、最終的に胚胎が円満すると衆生の生命体が出生する。
如来蔵が執持しなければ受胎現象は発生せず、胚胎も形成されない。如来蔵が精子を執持せず卵子を執持しなければ、精子と卵子は生命力を持たず、結合しても受精卵とはならず胚胎も出生しない。ここには如来蔵の働きがあり、初めて対応する生命の作用が生じる。如来蔵がなければ、それら二つのものは生命力を持たず、衆生を出生させず、生命体の形成も出現もない。たとえ人工授精であっても、精子と卵子は両衆生の如来蔵がそれぞれ執持し、結合後に当該衆生の如来蔵がこの和合物に入ることで胚胎となる。
精子と卵子が衆生の身体を離れているか否かにかかわらず、如来蔵は執持している。身体から離れる時間が長くなると如来蔵は直接執持しなくなり、精子と卵子は作用せず生命力も失われる。精子と卵子が身体を離れて一定期間内であれば、それぞれの如来蔵が執持しているため結合すると胚胎が形成される。しかし身体を離れる時間が長くなると如来蔵は直接執持せず、何の作用もなく生命を生み出すことはない。
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