『維摩経』にはこう説かれている。心が清浄であれば仏国土も清浄となり、心が清らかでなければ仏国土も清らかではない。なぜなら、見るものが清浄でなければ、相も清浄とならず、国土がどうして清浄でありえようか。心が清浄でない者がどうして清浄な仏国土を持つことができよう。まことに心が清浄になって初めて、見るものが清浄となり、見るものが清浄になって初めて、相が清浄となるのである。凡夫の衆生は心が清浄でないから、見るものも清浄でなく、見る相も清浄とならない。だから衆生が仏を見ても、仏を自分と同じように貪瞋痴の煩悩を持つ存在と見なし、仏のあらゆる欠点を探し出し、仏の清浄な行いを汚れた行いと見做してしまう。例えばある外道の女性が法会で説法を聴く際、毎回最後まで残り、朝には真っ先に法会に現れたため、人々はこの女性が仏陀と同居していると誤解した。数ヶ月後、彼女が木の盆を腹に当てて妊娠を装うと、人々は仏陀が実際にこの女性と関係を持ったと確信し、噂が広まった。後に四天王が見かねて鼠に化け、木の盆を噛み破らせたことで、ようやく人々は真相に気付いたのである。
もし衆生が真に仏陀を理解し、信じているなら、どうして異心を抱いて仏陀を疑うことができようか。結局のところ、衆生の心が汚れ穢れているため、自ら仏陀がそのような行為をしたと思い込むのである。心清らかな弟子たちは、仏陀に対して何ら異議や不遜を抱かず、完全に仏陀の清浄を信じ切っている。衆生の心がどのようなものであるかによって、どのような相を認めるかが決まり、自らの心の認識範囲を超えることはない。だから心が汚れた者は、非常に清らかな心を持つ者が存在し、自分の行動や見方と一致しないことを信じられず、事あるごとに疑念を抱き、いやしくも疑うまでもなく、直接相手の非を確信してしまう。この事例から、衆生の心がまことに穢れ汚れ、正しい知見を持たないことが明らかである。
心清らかな人は出来事に遭遇しても、そのままにしておき、思い巡らすことなく過ぎ去らせる。心清らかでない者は、様々な推測や知見、疑念を胸に抱え込み、捨て去ろうとせず、是非が渦巻き、矛盾が重なり合う。だから世俗の世界では毎日混乱が絶えず、安寧な日々などありえない。家庭から社会の大小様々な団体に至るまで、全てこの通りである。その原因は、衆生の心があまりに汚れ、穢れが深刻で、誤解が多すぎるため、是非が絶えないのである。
3
+1