衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年04月28日    土曜日     第5 回の開示 合計428回の開示

衆生の本覚と始覚

一切衆生には本覚があり、それは如来の智慧徳相である。しかし衆生は無明があるため、この本覚を未だ発見していない。もしこの本覚を発見すれば、無始の無明を打破し、覚りが始まる。これが始覚であり、覚知心が覚り始めることを指す。始覚は本覚に依って存在し、始覚の対象は本覚そのものである。本覚の縁がなければ、覚知心も覚り始めることができず、始覚も存在しない。始覚以前は、覚知心の不覚であり、無明があるため本覚を悟ることができない。この覚知心の不覚も本覚に依って存在し、不覚の無明の種子は本覚の中に存在する。不覚の覚知心は本覚より出生するのである。

本覚とは、本来より覚った存在であり、無始劫以来一度も迷い転倒したことがない。これが第八識如来蔵である。我々が常に説く「真如は無知にして無く不知、無覚にして無く不覚、無念にして無く不念」とは、真如が本覚そのものであることを指す。本覚は一法も知らざるものなく、一法も覚らざるものなく、一法も念わざるものはない。もし一法において覚知せず念わなければ、その法を顕現することもできず、相応する種子を輸送することもできない。そうなればその法は形成されず、現れることもない。

一つの不知があれば無明となるが、本覚に無明は存在せず、全てを知り尽くしている。ただしこの「知」は七識心の知とは異なり、その体性は七識心と全く別物である。七識の知は六塵の境界に限定され、せいぜい如来蔵の理や世出世間の理を知る程度で、これもまた法塵に属する。これ以外の領域については、七識心は何も知ることができない。本覚の知は三界の一切の法を含み、世出世間法に一つの例外もなく覚知し念じている。その不可思議さは際立っている。本覚の知を探究すればするほど、三界宇宙万有の来龍去脈が明らかになり、我々の智慧は高まり、本覚とますます相応していくのである。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

真覚の平等覚性と妄覚の平等覚性

次の記事 次の記事

思考不鮮明の際は修定を重ねるべき

ページのトップへ戻る