衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年05月04日    金曜日     第1 回の開示 合計436回の開示

妄法と真法は一ならず異ならず

妄心と真心は不異不二の関係にあり、完全に同一というわけではないが、相互に関連する部分がある。頭と体の関係、あるいは泥と泥人形の関係、金塊と金細工の関係に似ている。真理の次元において真妄は不異であるが、妄は真から顕現したものであり、理の上では真であるものの、相の上では依然として妄が存在し、これは軽視できない作用を持つ。例えば七識は妄であり、如来蔵から生じたもので如来蔵と不異であるが、同一ではない。もし七識を如来蔵と見做すならば、人々は坐禅によって如来蔵を悟る必要もなく、単に七識を如来蔵と認識するだけで覚りを得たことになる。実際これは誤りである。

もし眼識がそのまま如来蔵であるならば、眼識を悟ることは極めて容易で、眼識を悟ることが即ち如来蔵を証得し、明心開悟することになる。般若唯識の経典を学ぶ必要もなく、眼識が如来蔵であるならば、眼識を理解すれば如来蔵を理解したことになり、人間の言語で五識の所在と作用を説明できれば、誰もが明心見性の菩薩となり、衆生は仏法を学ぶ必要がなくなる。さらに如来蔵自体が解脱しているならば、如来蔵と眼識が同一である限り、眼識や七識も解脱しており、そもそも仏道修行は不要となる。しかし実際にはそうではなく、眼識などの七識と如来蔵は不異不二の関係にあり、完全な同一性や等価性は存在しない。

もし如来蔵と七識が同一であるならば、衆生が死亡時や昏迷時、睡眠時に如来蔵が七識に代わって見聞覚知し、五陰の活動を代替できるはずである。そうであれば衆生は安心して死に、昏迷し、眠りにつくことができ、覚醒や転生を気遣う必要もなく、如来蔵が自己の生存を完全に代替するだろう。無余涅槃には如来蔵のみが存在するが、もし如来蔵と七識が同一ならば、無余涅槃において如来蔵は七識の見聞覚知を代替する。もし無余涅槃に見聞覚知が存在するならば、涅槃は寂静ではなくなり、仏説の三法印における涅槃寂静の理に反することになる。

例えば金盆と金塊は不異不二であり、本質は同じ金だが、相と作用には差異がある。盆が必要な時、金塊は役に立たず、金盆を用いなければならない。この場合、金塊は金盆を代替できない。同様に土を焼いて陶器を作れば、陶器と土は不異不二の関係となる。本質は同じでも相と作用は異なる。もし同一ならば、土壁を作る際に陶器は役立たず、土そのものが必要で、二者は相互代替できない。もし人々が工芸品を必要とするなら、陶器を購入し使用すべきで、土を買って用いることはできない。このように全ての妄法と真法は完全に同一ではなく不異不二の関係にあり、相同性を持ちつつも差異があり、それぞれに機能作用があって相互代替ができないのである。

——生如法師の開示
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離如来蔵無因縁法

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