衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2021年05月16日    日曜日     第2 回の開示 合計3399回の開示

知解は証に非ず

常楽我浄、涅槃の四徳。常とは仏陀の無垢識に種子の変異がなく、永遠に変わらずに保たれること。楽とは仏陀の一切の業障が永遠に尽きて余すところなく、無垢識に苦受の種子がなく、残る全ては楽受と不苦不楽受の善業種子であり、その果報は寂滅の楽である。我とは仏陀の無垢識において一切の生滅業種を滅し、業障に引きずられることなく、完全なる我性を具え、我と称される。浄とは仏陀の無垢識が一切の染汚種子を滅尽し、徹底的に清浄無垢となること。

第八識も業障の遮障を受ける。もし業障がなければ、尽きることのない功徳を発揮し、大千世界を照らす。まさに仏陀の無垢識のように、遍くならざる法なく、周らざる法なく、現れざる法はない。しかし衆生の第八識は業障に制限され、極めて多くの殊勝で美妙な境界を現出できず、衆生の分身を変造できず、仏国土を変造できず、一切の境を遍く縁とすることができない。いわゆる第八識が制限を受けるとは、その無量無辺の功徳作用が発揮できないことであり、殊勝な功徳作用がないことではない。仏地に至れば、第八識はもはや制限を受けず、一切の功徳作用を尽く発揮する。

以上の道理を皆理解し、知っているか?人に解説できるか?法の学習において、全ての理解と知は意識心に落ち、意根心中に落ちていない。理解し知っていても、証得からは十万八千里の隔たりがあり、それをはるかに超えている。たとえ人に解説し、百冊の書を著しても、証得からは十万八千里の隔たりがある。五蘊無我について、たとえ全てを理解し、知り、その知解が深く透徹していても、それは証得ではなく、おそらく証得からは極めて遠い距離がある。第八識について、いかに理解し知ろうとも、知解が深く、第八識の功用を推測し考察できても、それも解に属し、証ではなく、証得からは極めて遠い距離がある。多くの人がこの解を証と錯覚し、弁舌優れた者は善知識を名乗り、至る所で経を講じ法を説き、弁舌さわやかである。しかし如何なる場合でも、耳から入り口から出る法は、証ではない。

蘇東坡の仏法に対する解釈:八風吹き動かさず、端坐す紫金蓮。結果、禅師の評価:屁!蘇東坡はこれを見て即座に不機嫌になり、自分がこれほど優れた詩を書いたのに、屁と言われたのか?そこで川を渡り禅師を訪ね議論しようとした。禅師曰く:貴方は八風吹き動かさないと言ったではないか。どうして一つの「屁」の字で私と論じに来たのか?

——生如法師の開示
前の記事前の記事

心解脱とは

次の記事 次の記事

観行の入手法

ページのトップへ戻る