如曌の観行日誌:本日は左足を半跏趺坐で30分、右足を半跏趺坐で30分行いました。坐った後、まず一遍楞厳咒を唱えました。その後、心を凝らして呼吸を観じたところ、間もなく全身が持続的に発熱し、四肢と顔面に汗が生じ、口中に不断に津液が分泌されました。丹田の発熱は感じませんでしたが、一息ごとに深く吸い込み、下腹が自然に膨らみ、観察が深まるにつれより深く吸い込めるようになりました。左足半跏と右足半跏では身体の感覚と鼻孔の吸気量が異なるようで、身体の感受も完全には一致しません。現時点では左足半跏の方が心が安定しやすく、観察時間も長くなります。
日常生活では非常に鈍重で緩慢であり、大半の事柄が心に留まらず、多くの瑣事を覚えていられません。時に思考が必要な場面で突然思考が停滞し、自らの心が何を考えているのか分からなくなることがあります。人と話す際には相手の伝えたいことや発散したいことが理解できますが、相槌を打つ言葉も出ず、口を開くことすら億劫に感じます。自他に苦しみを受ける時、その苦しみの由来を考え、徹底的に集を断ち苦を滅ぼそうと念じます。
総括:心の念いが集中すればするほど、体内の気が集約され、エネルギーが集中するにつれ、気機が発動して全身が発熱します。禅定が極めて深い者は、身体の寒熱に対する感受性が鈍化し、冬に厚着を要せず、夏に厚着しても暑さを感じず、冬夏一つの衲衣で、常に衣替えする必要がありません。
禅定は浮ついた気を幾分消し去り、重要でない事柄に心を用いなくなり、権勢に迎合することもなくなります。当初は言葉遣いや動作が拙く見え、行動力は弱いものの観察力は深く透徹し、心細やかで敏感になります。人や物事を見る目が以前より精確かつ詳細となり、騙されにくくなり、大智が愚を装うような状態となります。実際には心を小事に用いず、真の智慧が徐々に向上していくのです。
5
+1